高橋睦郎『百枕』(27) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『百枕』(27)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕討--九月」。
 「枕討」は高橋の造語である。高橋がエッセイに、そう書いている。寝取られ男が、腹いせに枕を討つ、という「意味」である。
 私はこういう逸脱が好きである。それは逸脱であると同時に「誤読」である。不義・密通の話は昔からあるが、寝取られ男が腹いせに枕を討つということは、きっとだれもしていない。していれば、その行為に相当することばがあるはずである。ひとはだれでも自分のしたことは語りたいものである。実際にしなくても、したいと思ったことは語りたいものである。

雷(いかづち)を逐うて失せしを枕討

枕討人数踏ン込む露の宿

人憎し枕憎しや残る蝿

 「枕憎し」の「憎し」がおもしろいなあ。枕が何かをしたわけではない。何かをしたのはあくまで人間である。その人間が憎いのだけれど、そこに人間がいなければ、枕にやつあたりしてしまう。枕がなければ不義・密通はありえない。枕のせいで不義・密通がおこなわれる。
 --こんなことは、「誤読」である。
 でも、そんな「誤読」をしないことには、こころの行き場がないのである。「誤読」はこころを救済するのだ。
 もし、江戸時代に高橋が生きていて「枕討」ということばを書いていたら、きっと何人もの男が「枕討」をしたに違いない。
 ことばは現実を変えていく力を持っている。

人は逃れ枕は討たれ秋深む

 この「秋深む」はいいなあ。人事と自然は無関係である。男が枕に仇討ちをしている。それだ何かが変わるわけではない。まあ、男のこころはいくらか晴れるのかもしれないけれど、そんなことは「思い込み」(誤読)である。そういう「誤読」の世界のとなり(?)に「秋深む」がある。となりというのは、へんだなあ。「誤読」を呑み込む(受け入れ、消化して)、秋が深まっていく。

枕捨てて落チ行く先や夜々の月

 これもいいなあ。「枕捨てて」の枕は実際にある枕だね。そして、これから迎える夜ごとの枕はどうだろう。時に「草枕」、時に「肘枕」--ではセックスはできないか……。まあ、枕なんて、セックスはできるからね。と、いうことろが、おかしい。
 枕はいくら仇討ちされても、恋には関係ない。恋にはひびかない。
 さて、どうしよう。



 反句、

この枕なくばあらずよ秋の翳

 「この枕」か。どんなものでも、思いがこもると「この」と呼ばれてしまう。「この」女、「この」男がつかった、「この」枕。
 「この」はこの句には欠かせない。




日本二十六聖人殉教者への連祷
高橋 睦郎
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