高橋睦郎『百枕』(22) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『百枕』(22)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕大刀--四月」。

刎頸の花の友こそ枕大刀

 いきなり過激な句で始まる。疑問は、首を刎ねるのになぜわざわざ「枕大刀」? 「大刀」とはいうものの、枕元に置くのだから小振りなのでは、などと歴史にうとい私は勝手に想像してしまうのだが……。
 エッセイで、このあたりの疑問を高橋はていねいに解説している。一連の句は、実は本能寺の変を題材にしている。信長は秀光の急襲にあい、自害する。

もちろん、割腹に用いたのも枕大刀だったろう。この時、蘭丸に介錯させたとすれば、比喩的に蘭丸こそが信長の枕大刀だったともいえる。

 そして、その解説は、次のようにも言う。

信長・蘭丸の衆道関係においても、蘭丸が大刀で信長が鞘であった可能性もなしとはしない。

 へえ、そうなのか。ちょっとびっくりした。そして、あ、もしかして、このことが書きたくて句を書き、エッセイを書いたのかもしれない、とふと思った。
 「刎頸の友」から書きはじめなければならないのは、そのためだね。



 反句、

枕大刀要らぬ世めでた遅桜

 これは「乱世」ではない「この世」をめでる句--と単純に受け止めていいのだと思う。ここにもっと別の意味があると、せっかくエッセイで書いた信長・蘭丸の関係がかき消されてしまう。



柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

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