石倉宙矢『父を着て』 | 詩はどこにあるか

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石倉宙矢『父を着て』(土曜美術社出版販売「エリア・ポエジア叢書」、2010年07月30日発行)

 石倉宙矢『父を着て』の巻頭の詩、「父を着て」は「父」ではなく、「母」がまず出てくる。顔を洗っている。

私は洗面所にこもって顔を洗う
日に焼けた油じみた額(ひたい)
指がまさぐって濯いでゆく老いた肉
両掌(てのひら)が突きしたり、確かめる髑髏
それは母のもの
母が老いた自分の顔を丁寧に洗っている
子が覗くのにも気づかず
その母のたわんだ皮膚を私が洗っている
「老いたね」と言いながら
母が私のよごれた皺を洗う
母が私を着て、私が母を着て
互いの顔を洗いあっている

 「母」と「私」が交錯する。「母が私を着て、私が母を着て」と並列に書かれている。それは、どちらと限定できないのだ。交じり合っているのだ。
 私は私の顔を洗う。そのとき、私の手は、その手の先に「母」を感じる。「私」のなかにい「母」である。遺伝子も(骨格--「髑髏」と石倉は書く)も思い出も区別なく交じり合って、「顔」のなかにある。皮膚にも、骨格にも、そして、「老い」という現象のなかにも「母」と「私」が交じり合う。「母」の年になり、その溶け合ったものは、いっそう区別がつかなくなる。
 区別がつかない--けれども、石倉は、それを区別する。「母を着る」「私を着る」という表現で。「着る」という動詞で。ことばで。
 ことばにすれば、そこに「区別」が出てくる。そして、その区別によって、逆に融合が強調される。共通性が強調される。共通するものを、区別できないものを、より強く自覚するために、「着る」という不自然なことばがつかわれている。わざと、そういうことばがつかわれている。
 この「わざと」のなかに詩がある。石倉がことばを動かすことで、はっきりと見つめたいものがある。
 「水辺の散歩」に次の行が出てくる。

さ ここで川が海に入る

どこまでが川の水?
どこからが海の水?

 区別はできない。区別はできないが、区別できないと知ったときに、ことばのなかで区別がはっきりと動く。融合を意識しながら。
 この区別と融合はいったい何なのだろう?
 「海辺の散歩」のつづき。

藻につかまってアメフラシも覗いている
花びらや葉っぱが沖へ出てゆく
無数の川や涙をとかして世界に繋ぐ海

 「繋ぐ」ということば。融合とは「区別」できるものを「繋ぐ」とき、繋いだときの状態なのだ。「繋がり」が、石倉にとっての「キイワード」だ。
 顔を洗う。そのとき、顔を洗うという動作を通して「私」と「母」がつながる。どんなふうにして顔を洗う? 手の動きは? どこを丁寧に洗う? そうした動きを通して、「私」は「母」の記憶とつながる。記憶のなかの「母」とつながり、また、手に触れてくる骨格から「母」を感じる。「母」の皮膚、「母」の老いを感じる。
 「髑髏」(骨格)に触れるというのは、「私」が「母」の骨格をていねいに洗った記憶があるからだろう。たぶん、「母」は亡くなっている。「母」の最後の洗顔--それを「私」は「私」の手でしたのだ。そんなふうに、最後に「母」の顔を洗うという行為、そのことによって「私」と「母」はより強くつながる。
 「私」と「母」を繋いでいるのは、遺伝子だけではなく、「母」から学んだ「行為」が二人を繋いでいるのだ。

母が私を着て、私が母を着て

 の「着る」は、「行為を繋ぐ」(継承する)ということである。「繋ぐ」--このとき、繋ぐ対象は違っても、繋ぐという行為そのものは変わらない。「母」と繋ぐ、その繋ぐという行為は「父」と繋ぐときも変わらない。
 「父を着る」という詩の最初に「父」は出てこない。「母」がまず出てきて「私」と繋がる。けれども、その「繋がり」は「母」をとおして「父」までつづいている。どこまでもどこまでもつながり、とぎれることはない。
 そういうつながりによって、「私」はできている。
 「かぞくてんせい」を読むと、石倉の「つながり」に対する意識がよりわかりやすくなる。

よしこや
おかあさんもうわらいますからね
おまえも
いつまでもおこってないで
はやくわらいなさいよ
おとうさんならもうさきにわらっています
だからわたしもわらいます
おまえも
いつまでもがをはらず
はやくにっこりとわらいなさいね

よしこや
おかあさんもうわすれますからね
おまえも
いつまでもおぼえていないで
はやくわすれなさいよ
おとうさんならもうさきにわすれています
だからわたしもわすれます
おまえも
いつまでもこだわってないで
はやくさっぱりわすれないさいね

よしこや それじゃあ
おかあさんもうしにますからね
おまえも
いつまでもいきていないで
はやくしになさいよ
おとうさんならもうさきにしんでいます
だからわたしもしにます
おまえも
いつまでもがんばりすぎずに
はやくさっぱりとしになさいね

よしこや
おかあさんまたうまれますからね
おまえも
いつまでもしんでいないで
はやくうまれなさいよ
おとうさんならもうさきにうまれています
だからわたしもうまれます
おまえも
いつまでゆらゆらちらばっていないで
はやくげんきにうまれなさいね

 「つながる」とはあくまで「他人(他者」とつながることである。自分自身につながっていてはいけない。そういうことを「我を張る」という。そして、我を張ったままの状態を、「ちらばる」ととらえる。詩の最後から2行目の「ちらばって」が「つながる」と向き合っている反対のことばである。
 自分自身につながることをやめて、他人とつながる--それは、また、再生(生まれ変わる)ということでもある。死んで、生まれ変わる。その繰り返しが「いのち」である。死んで生まれ変わるには「つながる」ことが重要である。「ゆらゆらちらばって」いてはだめなのだ。
 


父を着て―石倉宙矢詩集 (エリア・ポエジア叢書)
石倉 宙矢
土曜美術社出版販売

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