高橋睦郎『百枕』(16) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『百枕』(16)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕虫--十月」。「枕虫」。こんなことばがあるとは知らなかった。エッセイに、

「枕虫」という珍しい歌語は『大斎院前御集(だいさんゐんさきのぎょしゅう)』に突如現われる。

 と、ある。

大斎院の雅(みやび)を伝える挿話の一つが、ある秋の夜、就寝前に洩らした「まくらむしのなく」の一語で、さっそく女房の進が聞き止めて、歌を詠むことを勧め、自分たちも詠みたてまつった。

 という。そして、その歌というのは、

うきよをばたびのやどりとおもへばやくさまくらむしたえずなくならむ

 というのだが……。この歌、「枕虫」とつながるの? 「浮世をば旅の宿りと思へばや草枕虫のたえず鳴くならむ」。「草枕/虫のたえず鳴くならむ」じゃないの? 旅に出て、「草枕」で横になる。すると、その枕の下から(草むらから)虫の声がする。まるで枕のなかで虫が鳴いているよう……。私のいいかげんな理解力では、そんな具合になる。
 あくまで「草枕/虫」。
 ここから「(草)枕虫」にかわる瞬間、その契機が、私にはわからない。わからないのだけれど、こういう変化というのは、おもしろいと思う。 
 変化ではなく、きちんとした脈絡があるのだけれど、私にはわからないだけなのだと思うけれど、こういうわからないものに出合ったとき、私は強引に「誤読」するのである。えい、やっ、と掛け声をかけるでもなく、ぱっと「誤読」の方へ渡ってしまう。秋の夜、虫が鳴いている。枕元にまで聞こえる。それを「ああ、枕虫が鳴いている」と言ってしまう。そして、そこから逆に、まるで旅で草枕で寝ているよう。そういえば、この世は旅の宿のようなもの、いまのいのちは旅の途中……大斎院の歌は、そう読み直せばいいのだな、と勝手に考える。
 女房たちにかこまれて生活しているのだが、旅を想像する。それも、人生という旅だ。そのとき「草枕/虫」は(草)「枕虫」に変わるのだ。そして、その変化したもの、「言語として結晶したもの」だけを高橋は引き継ぐ。
 高橋はいつも「言語の結晶」を引き継いでいる。そして、その「言語結晶」をのぞくと、それはプリズムのように、光を分解し、きらめかせる。その輝きが、高橋は好きなのだと思う。



髭振りて枕に近き虫一つ

 この発句は、「枕虫」の冒頭におかれるには、ちょっと奇妙な感じがする。「枕虫」はあくまで「鳴く」が基本。聴覚でとらえた「まぼろし」。「髭振りて」というとき、そこには聴覚は働いていない。視覚が中心になっている。「枕に近き」の「近き」も聴覚でとらえた距離ではなく、視覚でとらえた距離だろう。

 私は次の2句が好き。

つれづれに虫籠つらね肘枕

 虫かごをならべ、あきることなく見ている。「肘枕」というだらしない(?)というか、力をぬいた体の感じが、虫に酔っている、虫が大好きという感じをくっきりと浮かび上がらせる。
 このとき、「私」は、虫を見ている? 聞いている? 見ているんだろうなあ、と思う。鳴くのを待って、あかず眺めているのかもしれない。

籠の虫慕ひて虫や枕上ミ

 籠の虫が鳴いている。それを慕って恋人の(?)虫がやってくる。それがいま、枕の上)にいる。虫籠と枕のあいだ、枕の上の方(枕もと)にいる。枕の方(枕もと)から虫籠の方へ近づいていく。それを見ている。(これも視覚の句。)いいなあ。それを見ているとき、「私」は、虫の動きとは逆の動きを夢見ているかもしれない。つまり、だれかが「私」の枕の方へ近づいてくることを、ぼんやり夢想しているかもしれない。



 反句

虫めづる大斎院の枕杖

 「枕杖」ってなんだろう。大斎院の「枕虫」ということばを根拠(支え=杖)にして、「枕虫」という一連の句をつくりました、くらいの「あいさつ」かな?



花行―高橋睦郎句集 (ふらんす堂文庫)
高橋 睦郎
ふらんす堂

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