江代充「語調のために」 | 詩はどこにあるか

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江代充「語調のために」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 江代充「語調のために」は4篇の詩から構成されている。4篇の構成によって何かを語ろうとしているのかもしれないが、私の関心はそこにはない。江代のことばには、独特のリズムがある。それだけが私の関心である。
 4篇の冒頭は「生」という作品。

山かげの石垣が雨に吹かれたように湿り
また灰色になり
そこに生え拡がる苔のような草の姉妹が
石に正しく取り付いてこちらにも濃く見渡せるのは
眠らないこの地を通して朝がくること
わずかな苦しみのわざを通し
ここでは街中よりも早く日の暮れることを
ともないをもとめて行く人に知らせるためだろうか

 この詩の「主語」はどれだろうか。何だろうか。「こちら(私の方?)」が形式主語であり、意味上の主語は「苔のような草(略)が/(略)見渡せるのは」だろうか。そして述語は「知らせるためだろうか」になるのだろうか。「草が見渡せるのは……知らせるためである」という構文のなかに、この詩はおさまるのだろうか。
 しかし、そんなふうに仮定すると、とても奇妙なことが起きる。
 「知らせる」対象は「ともない(同伴者?)をもとめていく人に」ということになるが、「何を」知らせるのかがよくわからない。「……」に相当する部分が、よくわからない。矛盾した2行になってしまう。「朝がくること(を)」「早く日が暮れることを」。どちらを知らせたいのか、朝についてなのか、日暮れについてなのか、読みながら悩んでしまう。
 この矛盾を解決(?)する方法、視点はひとつある。「どちらか」ではなく「両方」なのだ。「朝がくること(を)」知らせ、また「日が暮れることを」知らせる。
 「両方」ということばはここには書かれていないが、たぶん、江代のキーワードは「両方」なのである。「両方」を江代のつかっていることばで言いなおせば「また」になるのだが……。2行目の「また灰色になり」の「また」。
 併存。並列。これは、そんなふうにも言い換えることができる。

山かげの石垣が雨に吹かれたように湿り
また灰色になり

 石垣が「湿り」、また「灰色にな」る。「湿る」と「灰色になる」は、同列ではない。別な別な現象である。その別個な現象を「また」ということばで繋ぎ、併存させる。並列させる。そうすることで、「湿る」と「灰色になる」の「両方」を、あたかも同列にみせかける。
 別個のものが境界をなくし、流動する。
 天沢退二郎が江代の作品を高く評価しているのをどこかで読んだ記憶があるが、天沢にとって江代が天才に見えるとしたら、この別個のものが(ほんらい交じり合わないものが)、流動するという現象が、天沢の果てない夢、言語の夢だからである。
 「別個」のものが境界をなくし、流動するという現象は、3行目、

そこに生え拡がる苔のような草の姉妹が

 で、強烈にあらわれる。
 「苔のような草」なら、ふつうの表現である。でも「草の姉妹」とは? 「姉妹」とは人間をさす。草に姉妹などない。ぜったいにまじりあわないものが、ここでは平然といっしょになって動いている。流動している。
 先行する行との関係を見ると、江代が何を書きたいのか、さっぱりわからなくなる。
 「石垣」が「湿る」様子を書きたいのか、「灰色」になった様子を書きたいのか、そこに生えている「苔のような草」を書きたいのか、その草が「姉妹」であるということを書きたいのか。
 「両方」ではなく、「すべて」なのだ。「また」でつなぎつづける「すべて」を書きたいのだ。「両方」というのは「また」でつないだときの最少単位であり、そこを出発点にして、江代は「また」「また」「また」と世界を拡大していくのだ。「また」を省略しながら。
 この運動は、ある意味では「ひとり連歌」である。1行目を「また」ということばで新たに展開する。次の行も「また」でつなぐ。ただし、この「また」は省略する。省略しているが、1行目は「また」このように押し広げることができる。そして2行目は「また」次のようにも展開できる。3行目も「また」……。
 そのとき問題となるのは、常に直前の行だけである。(あるときは1行のなかでも同じようなことが起き、直前のことばだけが問題となる。)2行前のことばは捨てられれる。2行前のことばをすてさりながら、「また」ということばで、「直前の行」と「いまここにある行」の「両方」をしっかりと結びつける。
 2行前のことば(1行目のことば)を捨て去るためには、3行目のことばは、2行前のことば(1行目のことば)とは異質でなければならない。「苔のような草」では、石垣、湿りと着きすぎる。だから「姉妹」が必要だったのだ。
 「草の姉妹」はしかし、「草」ではありえない。もう「姉妹」である。「見渡せる」(見わたしている)のは草ではなく「姉妹」という「両方」である。「ひとり」と「ひと」である。
 ここまで「流動」してしまうと、あとは、もうただ「土石流」のように、何もかもが自己存在の輪郭をかかえたまま、世界をえぐるようにして流れる。見たことのない地肌がそこに出現する。
 書かれていない「また」を挟んで、先行する行と次の行が向き合っている。
 江代のことばは、何行もつづけて読むのではなく、常に2行単位で、とぎれとぎれに読むしかないのである。

 「また」は、「間/他」かもしれない。
 1行目と2行目の「間」。それをぴったりと埋めるのではなく「他」として存在させる。そこには、1行目がもっている世界とは違うもの、他のものが割り込み、「間」を「間」として存在させる。それは「魔/多」となって世界を被っていくかもしれない。
 あ、こんなふうに書いていくと、なんだか、そのまま天沢退二郎の詩について書いているような気持ちになってくる。



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江代 充
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