八木幹夫「目覚め」 | 詩はどこにあるか

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八木幹夫「目覚め」(「no-no-me」11、2010年07月15日発行)

 「わたし」とはだれなのか。八木幹夫「目覚め」は次のようにはじまる。


めざめて
わたしがわたしであることの
ふしぎ

めざめて
どうして
わたしはあなたではなかったか

めざめて
どうしてわたしは空とぶ鳥ではなかったか

めざめて
どうして
わたしは川原の石ではなかったか

 ここまでは、この疑問までは、八木は「ふしぎ」と書いているが、私には「ふしぎ」には感じられなかった。むしろ、こういうことを思うのは、ごく自然なことのように思える。「わたし」が「わたし」ではない、という夢は、「こども」ならだれでも夢見る。あこがれる。というか、ここに書かれていることは、まるで「こども」じゃないか。「あなた」は、まあ、「おとな」の感覚かもしれないけれど、鳥とか石なんて、「こども」の世界だ。不思議なのは、そういう「こども」っぽいリズムをそのまま書いていることである。正確ではないが、八木の年齢をおぼろげながら知っている。だから、よけい不思議に感じる。
 ところが、次から、突然、世界が変わってしまう。


めざめて
わたしは
あなたと
鳥と
石に
あやまった

めざめて
ずっと野山で
遊んでいたかった
あなたや
鳥や
石のように

めざめて
わたしにもどるまえの
はるかな時間が
なつかしい

 「あなた」という「だれか」や「鳥」「石」は、「わたしにもどるまえの」「わたし」なのである。「他者」ではない。「だれか」になりたいのではないのだ。「こども」はだれでも、自分の両親は別にいる。私は両親の子供ではないと夢見る。それが子供にとっての「わたしではないわたし」になる最初の体験だが、その子供の夢の鏡の裏のように、八木の書いている「わたし」は「だれか」にあこがれているのではない。
 ここに書かれているのは「こども」の夢ではない。

 「わたしにもどるまえ」の「わたし」。それは、この詩では「あなた」「鳥」「石」と書かれているが、それは便宜上三つにわけて書かれているだけで、三つではない。ひとつなのだ。「わたしにもどるまえ」の「わたし」は「あなた」であり「鳥」であり「石」である。それは、なにかでしっかり結びつけられている。
 その「なにか」を、八木は「はるかな時間」と書いている。
 「わたしにもどるまえ」の「わたし」は「はるかな時間」に住んでいる。それは、「はるか遠くにある時間」、遠い遠い過去ではない。「はるかな」は「いま」を起点として「はるか」はいう「距離」(隔たり)を指して言っているのではない。直線で結ばれる「いま-過去」の、その「-」を「はるか」と言っているのではない。
 その「はるか」には「距離」がない。「いま」がそのまま拡大していって、無限になる。「無限のいま」が「はるか」なのだ。
 だから「なつかしい」は「過去」、遠いところが「なつかしい」のではなく、「いま」「ここ」の、あえていえば、凝縮した一点、「いま」の「中心」が「なつかしい」のだ。その「中心」は「中心」であるから「一点」なのだが、「中心」であることによって「無限」なのだ。
 そこからどこへ行くか--その方向が「無限」という意味である。
 「いのち」は、そういう「無限のいま」のなかにある。

 私は、いま、オリヴェイラ監督の「コロンブス 永遠の海」という映画を思い出している。その映画に描かれている「永遠」、あるいは「郷愁」は八木の「無限のいま」、それを「なつかしい」と感じる気持ちに似ている。
 それは、「わたし」から遠いどこかにあるのではなく、「わたし」の、「わたし以前」としか言えない「中心」にあるのだ。
 八木は、それを放心してみている。放心のなかに、八木は、めざめる。それは、あたらしく生まれなおすということでもある。
 「なつかしい」といった瞬間、八木は「無限のいま」の「中心」へ吸い込まれていっている。吸い込まれていきながら、その吸い込まれていくことを自覚し、そこから帰るようにして「ことば」を動かしている。その、矛盾した往復運動、往復運動の矛盾のなかに、「いのち」というものがある。

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八木 幹夫
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