うちのりみ「ぬけめなくまごついて、路地。」は、猫を見かけたときのことを書いているのだと思うが、視線が猫にぴったりくっついているがおもしろい。
子猫の弓なりに歩く背を追っていく
その背にしょわせたいものがある
わっしょい、わっしょい、
神輿の下からのぞく
お守り 万華鏡 黒髪のつやつばききや!
揺らすものがないのでやはりしょわせたい
実際に神輿にであったのかどうかわからないが、猫の弓なりの背中とうちのの身体が融合していて、その体の奥から「わっしょい、わっしょい」が響いてくる。それはしかし、実際に神輿を背負った「重さ」--その「重さ」を感じている声ではなく、あくまで自分の「肉体」は解放されていて、他人の肉体の躍動を見ているときの、自分の肉体にあふれてくる喜びである。
その、自分と他者との、重なり合う部分と重なり合わない部分の、気楽な思い入れのような感じが、のんき(ノーテンキ?)で楽しい。
ピンセットでつまんで調整
しょわせたい 小さなリュックを しょわせたい
視線が猫にぴったりくっついて、そこから「小さなリュック」が自然に出てくる。「小さな」ということばに出会ったとき、きっとうちのの肉体も小さくなっている。「小さなリュック」を背負うときの、その軽さの喜び。それと一体になっている。
うちのは意識しているかどうかわからないが、「調整」(ちょうせい)という音、その音楽と「しょわせたい」の響く具合のなかに、その喜びがあふれている。「小さな」という音のなかにも「ちょうせい」に含まれる音が響いている。
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鈴木綾女「銀河系肩こり」は俳句。おもしろいなあと感じた句がいくつかある。
外人の尻ワンダフル初詣
外国人と神社(初詣)の出会いの「一期一会」が、「尻」と「ワンダフル」で軽くてにぎやかになった。なんとも、めでたい。中七がとにかく楽しい。
裂・破・透・縛ストッキングの花埃
女の視線と男の視線が交錯する。と、感じるのは、私だけだろうか。「裂・破・透・縛」という漢字のなかにひそむ暴力の陶酔。暴力というのは、相手がいないと成立しないねえ、それはセックスに似ているねえ、と感じる。
他者を求める視線がある。
「尻ワンダフル」の句も、「外人」という強烈な「他者」ゆえの楽しさである。
他者--異質なものと出会って、その力で鈴木自身の肉体を切り開いているのかもしれない。
他者を書きながら、自己を書いてしまう。その相互性(?)というのだろうか、他者と自分との自然な交流・融合がいい。そして、たぶん、鈴木のことばの特徴は、「遠心・求心」という融合感覚だけではなく、そこから一歩進んで、「ビッグバン」のように、世界が爆発する喜びに楽々と変化するというところにある。
花の冷ふにゆと啼きしペニスかな
笑えるねえ。「ふにゆと啼」く、か。いったい、鈴木の「耳」はどこにあるのかな? 目にあるのかな? 手にあるのかな? もしかしたら、口? 舌? あんまり書いてしまうとセクハラ? 「ふにゆ」という「啼き(声)」を聞いたのは「耳」でないことだけはたしかだけれど……。
人々を追い出しており心太
この句も好きだけれど、ちょっと他の作品とは違う。いろんなことばを鈴木はもちあわせているようだ。
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山木礼子は短歌を書いている。
レッテルを(はりおりはりべりいまそかり)気にしているのは自分じゃないか
「気にする」というときの「自己分裂」(鈴木の、他者との出会いをとおしての自己の解放とはちょっと違うね)がおもしろい。自分の中にある「他者」--それと出会い、それを「他者」のまま取り出してみる。
ふーん、と思った。
いいかげんな感想で申し訳ないが、ふーん、のあとことばを動かしていくほど、私は短歌のことをしらない。山木の作品も読んだことがない。