長い間、書くのを休んでいたので、どこまで書いたか、どんなことを書いたか、ほとんど忘れている。
『第三の神話』のなかの「弓」。
山の路をおりて来ると
落葉の中にたそがれのような宝石
をひろつた どういう女のものかな
どこへ行つても女のものばかりだ
「たそがれのような宝石」は「(覆された宝石)のやうな朝」の対極のものだろう。そうすると「女」は「神」の対極としての存在かもしれない。「神」の対極にあるのは「人間」だが、西脇は、そのなかでも「女」を対極として選んでいる。
どこへ行つても女のものばかりだ
は、何を指して言っているのか、よくわからないが、それを「人間」と考えるといいのかもしれない。「神」のものではなく、「人間」のもの。
これは、別な言い方をすれば、西脇は「人間」のものではなく、「神」のもの--つまり、「永遠」を探している、ということなのかもしれない。「永遠」がみつからない。そのかわりに「人間のもの」ばかりを見つけてしまう、と。
そう考えると「たそがれのような宝石」に「意味」がでてくる。
でも、「意味」が、いいことかどうか、むずかしい。こんなふうに「意味」にことばをつくくりつけていいものかどうか。
最後の2行。
ものはそれ自身でない時に
初めてそれ自身になるのだ
この「反語」。矛盾。「もの」が「もの」ではないとき、というのはどういうときだろう。「もの」がその「もの」の名前で呼ばれないときである。
別な名前で呼ばれるとき。
これは、詩を書いている人間なら直感的にわかることかもしれないが、「もの」が「比喩」としてつかわれたときが、それにあたる。
「(覆された宝石)のやうな朝」は「朝」ではない。「宝石」でもない。「たそがれのような宝石」も「たそがれ」でもなければ「宝石」でもない。
西脇の書いている「もの」は「ことば」と置き換えることもできるかもしれない。
ことばはそれ自身でない時に
初めてことば自身となるのだ
そこから、こんなことも考えられる。
人間はそれ自身でない時に
初めて人間自身となるのだ
そして、ここからもう少しことばを動かして、
人間(男)は男自身でない時に
(つまり、女である時に)
初めて人間自身となるのだ
これは、西脇が男だからそう考えるのであって、女だったら逆に考えたかもしれない。つまり、自己否定--その先に、「それ自身」がある。
「神」が自己否定したら何になるだろう。--というようなことは、しかし、ここでは考えるのはやめておこう。ちょっと頭をかすめたのだけれど。
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