谷部良一「ちっぽけな光が」ほか | 詩はどこにあるか

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谷部良一「ちっぽけな光が」ほか(「火曜日」102 、2010年05月31日発行)

ローカルの
崩れかけたトンネルから
抜け出たような
ちっぽけな光が
今日も

ぼくのうす汚れた顔を
しきりに拭ってくれる

 谷部良一「ちっぽけな光が」の、この書き出しは、何のことなのかはっきりとはわからない。わからないのだけれど、ローカル線の(たぶん)トンネルということばが確かな風景をひっぱってきてくれる。トンネルの向こうに、ちいさな光が見えるということだろうか。トンネルを抜けると、そこは別の世界--そういう夢を見た記憶、それが「うす汚れた」何か、きょうの思いを洗ってくれるということかもしれない。
 この詩の途中に、とても好きな行がある。

 自分の手の平を見つめ直し
 自分の目の奥を聴き取り
 自分の喉ちんこのタクトを揺すり

 光に誘われて、「肉体」が反応している。その「肉体」をきちんとことばにしている。「目の奥を聴き取り」には、「肉体」の、感覚の、肉体のなかに在る感覚が互いに融合して、なにごとかを丸つかみするときの強さがある。その目と耳の融合に、喉の音楽が参加する。これは楽しいなあ、と思う。

 もう一篇「星座のブランコ」。

山をぼくが見るのではない
川の意志が窓となっている
時代の錯視が
曲がった遠近法で語っていただけ

空は宇宙の背もたれのあるベンチである
海は実にアメーバの眼球からの滴である

一本の樹に見られているぼく
流れる星に呼ばれているきみ
一つの森は静かに呼吸している

 谷部は「自然」そのものをも彼の「肉体」にしてしまう。「錯視」ということばは、ちょっと「頭」のことばという感じがするが、まあ、いいさ。

空は宇宙の背もたれのあるベンチである
海は実にアメーバの眼球からの滴である

 は、とても美しい。特に「空は」の1行はすばらしい。夢に見てしまいそうだ。この詩の最後は、

ヤアー

 という声で終わるのだが、ああ、そうなんだ。「宇宙」を「肉体」にしてしまうとき、ひとは、意味のない「声」を出すしかない。「ヤアー」という「意味」をもたない、「肉体」の奥からの声に比べると、ことばなんて、まあ、どうでもねいいね。