貞久秀紀「日の移ろい」 | 詩はどこにあるか

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貞久秀紀「日の移ろい」(「鶴亀」4、2010年04月発行)

 貞久秀紀「日の移ろい」は、ことばが少しずつ動いていく。丁寧に動いていく。

 ともにゆれているいくつかの枝が、そのいくつかに分かれて風にうごき、うごきにあわせてゆれるあたりには、葉をしげらせたどの枝にも日があたり、どの枝についていて、
 まだ枯れない葉にも、そこからそこまでがこの木であるところで乾いた陰日なたをつくり、いまこの世にあまねくひろがる日が、そこでは葉の数に分かれておのおのゆれうごく。

 少しずつ動いていくうちに、主客がいれかわる。最初は、枝がいくつかに分かれ、その枝がゆれる。そこには書いていないけれど、きっとその先端である葉はまたいくつかに分かれ、ゆれているはずである。そのゆれている葉に日の光があたっているのだが、そこでは葉がゆれるのではなく、日の光が「葉の数に分かれておのおのゆれうごく」。
 えっ? 何がいれかわった?
 あ、そう思うかもしれないねえ。
 葉っぱがゆれると光がきらきら反射してゆれる。これは、一般的にいう表現であって、特別変わっているわけではない。
 けれども、よくよく考えると、この光がゆれるというのは、変である。木には幹があり、枝があり、葉っぱがある。つまり、「おおもと」があり、「先端」がある。そしてゆれるのは「おおもと」ではなく、「先端」である。(その先端へむけて、最初、貞久のことばう動いていた。)
 ところが「光」には「先端」というものがない。ひとかたまりのものである。
 それが、いま「葉の数に分かれておのおのゆれうごく」。
 貞久は「おのおの」と書くが「おのおの」なんて、ないはずである。葉っぱは1枚、2枚と数えられるが、光は数えられない。それなのに「おのおの」。

 変でしょ?

 でも、この変にはなかなか気がつかない。
 気がつかないように工夫しながら、それでも必ず気がつくように、ことばを貞久は動かしている。
 
 ともにゆれている「いつくか」の枝が、その「いくつか」に分かれて風に動き、

 そのいくつかに分かれて風に「うごき」、「うごき」にあわせてゆれるあたりは、

 うごきにあわせてゆれる「あたり」には、葉をしげらせたどの枝にも日が「あたり」、

 葉をしげらせた「どの枝」にも日があたり、「どの枝」についていて、

 ひとつのセンテンスには、かならず前のセンテンスの「ことば」が含まれている。カギかっこでくくった部分がそれである。不思議な「しりとり」がそこには隠されていて、そのために、ことばの「おのおの」が奇妙に独立して見える。独立しながら、形をかえていっているように見える。前の文章を引き継いでいるにもかかわらず、引き継ぎながら、どこかへずれていっている感じが残る。(しりとりというのは、ことばを引き継ぎながら、まえのことばとは違うことばへ動いていくゲームだ。)
 特に「ゆれるあたり」と「日があたり」はまったく違う種類のことばなのに、「しりとり」の効果(影響?)のせいで、一種のめまいのような、不思議な気持ちで「日があたり」を、日があたっている「あたり」のようにも感じてしまう。
 あたるという動詞が、あたりという「場」にかわる。動詞、その動く世界、うごきそのものの世界が、動くことで獲得した「領域」としての「場」をつくりだしていく感じがする。
 そして、ことばは、そこから、ことばの運動の領域という「場」を自分自身のものとして、現実の世界に押し返してくるのだ。
 木がある。その「木」が最初、ことばの「場」であった。「木」という領域(場)のなかで、ことばは動き回り、その「場」を枝に、葉っぱに分割したのだが、いまは、そういう分割された「場」(部分)がことばのよって立つべき場所ではなく、ことばはことばの運動そのものを「場」としているのだ。
 そういう奇妙な転換があるからこそ、光が葉の数に分かれて「おのおの」ゆれうごくということが起きるのである。光は、葉の上で動いているのではない。そういう肉眼でみえる「場」で動いているのではなく、「ことばの運動そのものの場」という目には見えない「場」で動いている。
 「おのおの」には、そういう強い意識が働いている。「意識の場」の重力が、ことばの運動に不思議なゆがみ--歪みとはなかなか実感できないような、微妙な圧力をかける。その微妙さを味わうべき詩である。
 「希望」の前半。

 わたしが待ち、このひとが鳥籠から一羽の白い小鳥をだすときにわたしが銘じられているかたわらにいる間、それはこのひとの手の甲に止まり、ついでふたたび同じところに止まって光のなかへひろがりでるよりも前、行くなかで退いて止まり木に移る。

 「学校教科書」にはないことば、「流通言語」にはないことばがある。とりわけ逸脱しているのが「行くなかで」である。「なか」を「過程」ととらえれば、まあ、なんとか「意味」になるのだろう。そういう言い方は、口語でもあるにはある--どころか、しょっちゅう出てくるのではあるけれど……。
 たとえば、私(谷内)は貞久の詩について述べるなかで、貞久のことばの使い方は日常の言語とは違うと書いている、という具合に。
 この場合「なか」というのは、ことばが動いている「場」のことだ。「場」という「ひろがり」をもったものであるからこそ、その「なか」と言えるのだ。それは「場」でありながら、同時に「時間」(過程)でもある。「時間」は「時」と「時」のあいだの、ひろがりをもった「場」である。
 この「時間」と「場」の、一瞬の「融合」(?--ととりあえず、呼んでおく)に、貞久はとどまる。そして、その「場」を少しだけ、ひろげて見せる。そういうことを貞久はしている。
 過激に、過剰にではなく、少しだけ、丁寧に。そこに、何か不気味なものがある。少し、丁寧なものは、一種の着実さをもっている。ひとの意識をあまり刺激しない。そういうことを利用して、ずるずるずるっという感じで、貞久は日本語を貞久語という「外国語」にかえていこうとしているのかもしれない。

 私はいままで貞久のやっていることがよくわからなかったけれど、今回の詩は、とても魅力的に思えた。




空気集め
貞久 秀紀
思潮社

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