坂多瑩子「遺影」 | 詩はどこにあるか

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坂多瑩子「遺影」(「青い階段」92、2010年04月05日発行)

 坂多瑩子「遺影」は、死に追い付けない感情が書いている。

写真を選んだのは
ほんの数日前だった
留袖着て
あちこち目をやりながら
早く
とせかす
シャッターをおすと
もう
あちら側をあるいている

 「もう」に、坂多の実感がある。ほんとうは「もう」ではないのだろうけれど、「もう」しか思いつかない。ことばが、まだことばにならないのである。
 どれだけ書き進めていっても同じである。

ほほを押すと冷たい
やわらかく
私よりもずっと饒舌で
ドライアイスに挟まれた
顔の汗をふけという
やけどの痕みたいになるからという
大事なことはきれいでいること
らしい
写真の顔は
引きのばし中だが
へやの中はしんとして
とても軽い

 死者はもちろん口をきかない。その死者がだれであるか、坂多は書いていないが、親しい人である。だから、その死者が語っていることばが聞こえる。「饒舌」ではなく、坂多の耳が、過去から、生前の声を聞き取るのだ。坂多の耳は死者に「親密」な耳なのである。
 「らしい」は最初に引用した部分の「もう」と同じく、死者に置いてきぼりにされた、そしてそれに追い付けない感じを濃く漂わせている。

 いや、ほんとうは追い付いてしまっている。

 ぴったりと寄り添っている。だって、「親密」こそが、死者と坂多の関係なのだ。追い付けないはずがない。
 追い付けないのではなく、追い付いている、ぴったりと寄り添っている。だからこそ、その「追い付いている」こと、「ぴったり」でいること、死んでしまったということがはっきりわかること--そういうことを、まだ認めたくないのだ。
 追い付けないのではなく、追い付きたくないのだ。

へやの中はしんとして
とても軽い

 この、「とても軽い」も同じである。
 この「軽さ」は、死者に追い付きたくないという気持ちがはたらき、坂多が「わざと」むりやり、書いていることばである。その「わざと」は悲しみをこえらるの「わざと」につながっている。
 そのわざと、「こらえる」という「わざと」は、こらえればこられるほど、深くなる。悲しみとなって坂多を揺さぶる。

 ことばは、裏切る。「軽い」と書けば書くだけ、その底から「重い」が浮き上がってくる。追い付くことを拒んだことばはいつでも追い付き、追い越し、そうすることで書き手にさらなる「わざと」を強いる。
 そこに、感情の「揺れ」が浮かび上がる。
 ここには「声」の「ふるえ」が隠されている。

 そして、その「隠す」こと、その「わざと」こそ、坂多が、彼女の「親密な」死者から引き継いだ「哲学」(思想)なのだ。死者は、坂多泣きみだれることを望んでいない。死者が「笑顔」の「遺影」を望んだように、死者は坂多に「軽さ」を望んだのだ。「明るく見送ってね」と望んだのだ。
 だから、そうできるように、酒田は「追い付いている」にもかかわらず、「追い付いていない」ように、自分自身を押さえ込むのである。