監督 リチャード・フライシャー 出演 スティーブン・ボイド、ラクウェル・ウェルチ、エドモンド・オブライエン、ドナルド・プレゼンス
「午前十時の映画祭」10本目。
私はこの映画はスクリーンで見るのは初めてだ。そして、あ、モノクロじゃない、とびっくりした。学生時代、下宿の友人の部屋で少しだけ見た記憶があるが、そのときの記憶ではモノクロだった。なんのことはない。もっていたテレビがモノクロなので、モノクロ以外にありえなかったのだ。
で、というのも変だけれど、その「モノクロ」につながるシーンに、ちょっとどきどきした。とてもとても、なつかしいなあ、これいいなあ、と感じたシーンがあったのだ。
軍人たちがミクロになった医師たちをモニターしている。そのモニター画面。そこだけ、モノクロ。この映画ができた当時(1966年)は、科学室のモニターはまだモノクロだったのだ。うーん。うーん。うーん。そういう時代に、人間の体をまるごとミニチュアにして、体内に送り込むと発想するその想像力。
いつでも、想像力は現実を超える。現実を超えるから、想像力か……。
でも、まあ、いいかげんだよね。停止した心臓を通り抜けるのに、原子力潜水艦で1分。じゃあさあ、複雑な脳の内部から涙腺を探して、人間が泳いで、涙にたどりつくためにかかる時間は? おかしいよね。でも、こういう非科学的なところがSFの一番楽しい部分かもしれないねえ。
このおもしろさ、わかるためには、たぶんモノクロテレビを知っているかどうかは、重要だろうなあ。なんて、思うのは、小さいとき(小学生のとき)、「あ、いま、テレビがカラーになった」なんて嘘を言った記憶があるからだろうか。「えっ、ほんとう?」姉がびっくりしてとんできたけれど、そういう嘘が通じたというのは科学の仕組みをだれも知らないからだねえ。66年よりも前に、カラーテレビのうわさはあった。もちろん、見たことはないのだが。
高校生のとき、友人の家でカラーテレビをはじめてみた。そして、大人になったらカラーテレビを買えるだろうか、と思った。(私は当時はテレビが大好きだった。)そんな具合で、大学の下宿にもカラーテレビはあったが、友人の部屋にはなかった。モノクロテレビさえ、もっているひとは少なかった。そのテレビで、「ミクロの決死圏」をちらりと見た。
あ、どんどん、映画そのものの感想から遠くなってしまう。
でも、いいんだ。この映画は、私にとっては、そういうものなのだ。テレビの延長なのだ。映画である前に、テレビなのだ。初めて見たのがテレビだから、テレビを拡大して見ているという印象から逃げられないのだ。
テレビ(ビデオ)で見た感動を大きなスクリーンで、というのが「午前十時の映画祭」のひとつのうたい文句のようでもあるようだけれど、そんなことは、ありえないなあ、と私は思う。テレビで見たものは、テレビの記憶がよみがえってくる。
だからこそ。
あのモニターのモノクロに大感激してしまった。科学も、まだまだモノクロの時代だった。コンピューターなんて、もちろんなくて、人体解剖図なんてものも、モノクロのプリントアウトしたもの。わあああっ。すっごくおもしろい。丸めた解剖図を棚(筒)にきちんと順番に並べて、必要に応じてそれを取り出すなんて、なんてアナログな世界。モノクロの案内図(?)にしたがって巡る体内は、カラー。赤い動脈の赤血球。青い静脈の赤血球。いいなあ、このギャップ。
体内と外部の連絡だってモールス信号。なんだ、これは、だよね。
傑作は、原子炉は縮小できないから、小さいんだ、といいながらも、その小さな原子炉自体、広辞苑くらいはあるからねえ。そんなもの、脳の中に入る? それ以前に、注射器の中に入る?
嘘。うそ。嘘。うそ。でたらめ。
でもね、そんなふうにして、嘘をつきたい、何かひとの考えていないことを考えてしまいたい、という気持ちそのものは、ほんもの。
このほんものは、モノクロのモニターによって、とてもリアルになる。この映画の2年後の「2001年宇宙の旅」には、もうカラーのテレビ電話(宇宙と自宅を結ぶ)が想像され、映画になっているんだから、「ミクロの決死圏」のうそとほんものの落差は大きい。
そこが、この映画の楽しいところだね。
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