廿楽順治の詩の魅力は「語り口」が安定していることである。「声」を自分のものにしていることである。「八景」創刊号には「残言 他」というタイトルでたくさんの詩が集められている。短くて、引用しやすいものの感想を書いておく。(「残言」のように、末尾がそろえられ、書き出しがふぞろいの、山のような形の詩は、引用がめんどうくさい。はい、私は、とてもずぼらです。)
「もんじ屋」はタイトルからも「もんじゃ焼き」(お好み焼き?)を想像してしまう。書かれていることも「もんじゃ焼き」を連想させる。
男か女かもわからない。足がやわらかく煮えて、ももいろに。いやあん、ぱぴぷぺぽ。どうしてこの手はきれいにならないの。ふぁふぁになったり、まあまになったり、なにやら軟化にいそがしい。どれも火をとおさなきゃ売れねえしろものだな。しけっているお店のひとたち。こうみえても昔はさむらいの子だったのさ。し、のたまわく。ぱぴぷぺぽ。
もんじゃ焼きを焼きながら、焼けるのを待って、焼ける先から(?)食べながら、あれこれ話している。そのときの話というのは、気心がしれているから、とんでもない具合に飛躍する。そして、そういう会話の特徴は、飛躍するとき、いちいち説明しない。
たとえば、もんじゃ焼きのなかのイカの足。熱で色が変わる。
「お、このぷりっとしたももいろ、あれみたいだな」
「いやあん」
こういうときの、「あれ」。それを、だれも「ことば」にしない。「あれ」でわからない人と話しているわけではないのだから。
だからこそ、わかっていて、はぐらかしたりする。
「いやあん、って、おまえ、何か勘違いしてねえか? 何思い出してるんだ?」
こういう意地悪(?)が、人間関係を親密にする。「あれ」がますます「あれ」になる。「あれ」につながる「過去」が「いま」としてあらわれてくる。
--と、ここまで書いてきて、やっと、私は私の書きたいことがわかる。
廿楽のことばは「過去」をもっている。そして、その「過去」を説明せずに、直接ほうりだす。それは、一瞬、何のことかわからない。けれど、その一瞬わからないということが、逆に「わかる」ということへと変化していく。そこにおもしろさがある。
言いなおすと……。
「お、このぷりっとしたももいろ、あれみたいだな」
この、「あれ」は「頭」で考えると、何かまったくわからない。「あれ」というのは、先行することばがあってはじめて意味を持つものだが、「あれ」に先行することばがない。論理を「頭」で積み重ね、証明しようにも、証明のしようがない。だから、それは「わからない」としかいいようがない。
ところが、実際の「場」で、そのことばがひとりの人間の口から発せられるとき、そのことばは「肉体」の響きをもってしまう。口調の積み重ねのなかに、その「肉体」といっしょにすごしてきた「時間」、つまり「過去」がふわっと浮いて出てくる。
そういうものを「肉体」はわかってしまう。「過去」の共通の「時間」が、聞き手の「肉体」のなかによみがえってくる。「頭」ではなく、「肉体」で、「過去」を共有するのである。
「わかる」というのは、あることがらを「共有」することである。その「共有」を廿楽は「頭」のことばではなく、「肉体」のことばで実現する。「肉体」がことばを「共有」する瞬間を、きちんと書くことができる。
もちろん、私の書いていることは「誤解」かもしれない。
「いやあん、って、おまえ、何か勘違いしてねえか? 何思い出してるんだ? おれは何もいってないよ」
そういわれれば、そのとおりである。
でもね、人間の「やりとり」というのは、そういう意地悪やはぐらかしを積み重ねて、ゆったりとしていくもんだね。
「ぱぴぷぺぽ」も同じだね。
「やりとり」の最中に、つっこまれて、瞬間的にぱっとごまかす。
廿楽は、「やりとり」を詩にしている、と言い換えることができるかもしれない。
「やりとり」の定義はいろいろあるだろうけれど、私が「やりとり」ということばで考えるのは、そこに常に「他者」が存在すること。「概念」ではなく、「肉体」をもって、そこに存在することを前提とする。そこでは、厳密な「頭」のことばの運動とは別に、相手の反応を見ながらの「アドリブ」が入り込む。「空気」が入り込む。「空気」の変化が入り込む。
廿楽は、人と人とのあいだの「空気」を描いている、とも言い換えることができるだろうとも思う。
読者は、廿楽のことばではなく、そのことばの「場」の「空気」を読むのである。そのとき「ことば」は「こと」の「場」である。「こと」というのは「言」ではなく、「できごと」の「こと」。廿楽は「できごと」の「こと」と「場」の「空気」を描いている。
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