誰も書かなかった西脇順三郎(121 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 西脇は時空間を自在に旅する。「プレリュード」に、その特徴がくっきりと出ている。

伊豆の岩に仙人草が咲いていた時分は
九月の初めで
人間の没落もまだ早い頃であつた。
十月の間はまだ望みもなく
すべて見当がつかなかつた。
青黒い蜜柑のなる林の中で
老人とばくちうちの話をして
日の暮れるのを待つていた。
(略)
十一月にはいつてから毎晩ボオドレエルの
夢を見たが奇蹟の予言とは思えなかつた
湖水を渡つて西下し始めた。
夕暮の空は野ばらに染まつた。
われわれはまだ何物かに近づいて行つた
のだということを知らなかつた。
ここでまた六月に少しもどりたいのだ
シモツケソウとウツボグサが岩の中から
ねじれ出ている川合村見た
染物やの男神愛染が坐つている
藍壺の存在もアポカリップスであつた
のだと思うと悲しみもますものだ。

 九月、十月、十一月と「時」が「常識的」に流れる。その流れにしたがって、風景が動く。時間と空間が一致している。
 そのあと、唐突に、

ここでまた六月に少しもどりたいのだ

 と時間が逆流する。そして、それにあわせて、突然「川合村」という固有名詞と「場」が出てくる。
 なぜ、ことばがこんなふうに動くのか。
 それは私にはわからないのだが、この1行に、私はなぜか安心した。ほっとした。そうだったのか、とふいに、こころのなかにあったわだかまりが消えた。
 これに先立つ行。さーっと読んでしまうが、何かしらひっかかるものがある。

湖水を渡つて西下し始めた。
夕暮の空は野ばらに染まつた。

 湖水を渡った太陽が、湖水のの向こう、西の方に落ち始める。そのとき夕暮れは「野ばら」の色に染まった--という風に風景を思い描くのだが、これって変じゃない? 十一月に野ばら? 花はもちろん咲いていないし、葉っぱだって、もう落ちてしまっていない? 秋の夕暮れを、野ばらにたとえるのは奇妙じゃない? 
 「比喩」というのは、「いま」「ここ」にないものをもってきて、「いま」「ここ」を強く印象づけるものだから、十一月に存在しない野ばらをもってきても不思議はないといえば不思議はないけれど、そんなことをすると、「いま」「ここ」にいるという存在の根拠のようなものが崩れてしまわないだろうか。秋の夕暮れは、秋の花の比喩でないと、秋という印象が壊れてしまわないだろうか。
 --というのは、たぶん「学校教科書」の「詩学」。
 西脇は、そんなふうには考えないのだ。

 壊れてしまっていいのだ。
 安直な(?)連想を破壊し、ありえないことばの運動、それが引き起こす乱調が、西脇の「詩学」だからである。
 破壊にこそ意識を向けさせるために、ここでは、それが破壊であるとわかるように「六月」がひっぱりだされてきている。「野ばら」も「六月」も西脇の、「わざと」書いたことばなのだ。

 なぜ、破壊するか。
 西脇のことばを借用すれば「何物かに近づいて行」くためである。教科書のことばの運動ではたどりつけないものに近づくためである。破壊の瞬間、その破壊のすきまから「何物」かが見える。
 で、その「何物か」とは何か。
 わからない。私には、わからないけれど、次の行が大好きだ。

染物やの男神愛染が坐つている
藍壺の存在もアポカリップスであつた

 「あいぞめ」を中心とする音のゆらぎ。「あいつぼ」と出会って「アポカリップス」という音が「存在」させられる。「あ」の響き、「ざじずぜぞ」、「あいつぼ」「アポカリップス」。
 何かが確実に「解体」した、という印象がある。その「解体」を経て、ことばは、再び十一月へもどる。

十一月になつてから前兆がますます
はげしくなつて足なみも乱れていた。

 乱れても存在してしまう「ことば」。乱れるから「自在」という感じがする。「自由」がそこに噴出してくる。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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