「茶色の旅行」は百人一首のパロディのようにして始まる。
地平線に旅人の坊主が
ふんどしをほすしろたえの
のどかな日にも
無限な女を追うさびしさに
宿をたち出てみれば
いずこも秋の日の
夕暮は茶色だつた。
「しろたえのふんどしをほす」だと悪趣味だが、「ふんどしをほすしろたえの」には笑いがある。前者は「しろたえの……」というリズムが解体されていないから悪趣味なのだ。リズムそのものを解体して、そこに「しろたえの」というオリジナルを追加するとき、音楽がいきいきと動く。記憶が動く。音の不思議さは、いまがすべて「過去」になっていくことだが、西脇は、その「音楽」の法則を逆手にとっている。逆流する「音楽」がある。それが楽しい。
その楽しさに飲み込まれて忘れてしまいそうになるが、「無限な女を追うさびしさ」というのは、西脇特有の言い回しだと思う。この表現のなかにも「ふんどしをほすしろたえの」と同じリズム構造がある、と私は思う。
無限の女を追うことが、「私(にしわき)」の「さびしさな」のではなく、元の形にもどせば、女そのものが「さびしさ」であり、それを追う旅は「無限」なのだ。--とはいうものの、そのふたつは、切り離せないのだけれど。
この詩のなかで、西脇は、陶器に絵つけをしたり、粘土をこねまわしたりしている。いろんな絵を描き、いろんな形のものをつくった。
そんなことをトツトリの宿で
イナバの女と酒をのみながら
心配をしたのだ。
この女にも平行線のように
永遠に於いて会うのだ。
女の心には紫のすみれを灰色に変化させる
染物やの術がある
西脇にとって、女は「永遠」である。つまり、普遍である。男が常に動くのに対して、女は「永遠」にいて、男の運動を照らしだす。導く。西脇の願望は、「永遠」に、つまり女にたどりつくことである。女に「なる」ことである。男で「ある」、女で「ある」という状態ではなく、「なる」という運動--それが西脇の願望だ。
そして、そういう運動のために、リズムの乱調が必要なのだ。「いま」を支配しているリズムを壊すことが。
女とは何か。自然の無常である。それは男(ある)にとっては、永遠にたどりつけない。「なる」をめざしてみても、最後は「平行線」に出会うだけである。それは「さびしさ」に出会うことである。それは出会ってみなければ生じない「さびしさ」である。
無限な女を追うことがさびしいのではない。追わなければさびしさは生まれない。運動としてのさびしさ。それは、いつでも西脇を待っている女なのである。
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