「萬暦赤絵」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)
「萬暦赤絵」を買いにいって、犬を買ってきてしまう小説だが、その本筋からすこし離れた部分でも、志賀直哉のことばはいきいきと動いている。
「萬暦赤絵」といっしょに展示されている銅器の描写が、とてもいい。
私の眼はそれよりも先づ銅器に惹かれ、いささか圧倒された。その紋様(もんよう)の野蛮なこと、そしてその如何にも奇怪(きっくわい)なこと、まさに驚くばかりであつた。総てが実に強く、そして寧ろ無遠慮過ぎた。私はかういふ器物を日常に使用してゐた人間の生活を想像し、不思議な力を感じ、同時に恐しく感じた。
「無遠慮」ということばの強さ。それは、「遠慮がない」というよりも、「飾らない」、いや、「実」を優先するということだろう。遠い先、いま、ここにないものを「何かをおもんぱかる」ということをしないということだろう。なるほど、その時代の人は、遠いもの、自分のいまとは無関係なものなどを考えている余裕などなかったかもしれない。
そういう余裕のなさは、一種の「弱さ」であるけれど、「強さ」でもある。いまは、「自分」のことより、「他人」の視線(自分から、遠い先にあるもの)を気にして、何かしら遠慮する。それは、「弱い」暮らしであるのだ。
うーん。
これは、なんだか私には、志賀の文体を語っているようなものにも思えるのだ。
志賀の文体は、刈り込まれ、簡潔である。流麗というよりは、実質的な、不思議な強さがある。その文体は「不思議な力」を持っていて、私には少し「恐ろしい」。少なくとも、私は、志賀直哉の文体は苦手な文体のひとつだった。そして、それは私自身は気がつかなかったが、苦手というより「恐ろしかった」のだと思う。
そういう文体をつくりだしている、志賀直哉の「暮らし」のあり方が、ひととのつきあい方などが、「恐ろしかった」のだと、いまなら、思える。
志賀直哉は、ここに書かれている「無遠慮」「野蛮」「奇怪」--それは、それに先立つもうひとつの文章をも思い出させる。展覧会にしている客の身なりの描写である。(をどり文字は、表記できないので、引用にあたって書き換えた。)
これぞと思ふ詩なの前でいちいち老眼鏡をかけ、覗込んで見てゐた半白の背の高い男などは普段着に羽織だけ更へてきたといふ風情だつた。足袋までは見なかつたが、これで足袋さへ綺麗なら風俗として却つていいものだ。
この展覧会は、いわば「晴れ」の場である。綺麗な身なり形でやってくる。一般の客も、骨董屋の番頭たちも。そこへ、ひとり、羽織だけは綺麗だか、その下は普段着という男が混じり込んでいる。その「野蛮」。その「無遠慮」。ただし、志賀は、それに急いで、もし足袋が綺麗だったら、それは「野蛮」「無遠慮」ではなく、風俗として「いい」ものになる、とつけくわえている。
普段着という「野蛮」も、それを挟み込むように羽織と足袋がおしゃれなら、「野蛮」がアクセントにした新しい風俗になる、ということだろう。そういう新しいものを「いい」と志賀はいっている。そこには「生活」の「実」をふまえた「粋」がある。それが「いい」。
ただの「綺麗」よりも、内に(あいだに)、「野蛮」を隠しているもの、「内部」が強いもの--それを肯定していることになる。
志賀は、そういう文体を追求していたのだと思う。
だからこそ、次のようにつけくわえている。
尤も讃めてからは云ひにくいが、これは私自身であつたかも知れない。
普段着の上に、きれいな羽織、足元の足袋もきれい。そういう普段着の「実」と、よそいきの「きれい」の結合が志賀自身であるから、「実」だけの銅器に驚いたということなのだが、驚きながらも、志賀は銅器の「実」の「無遠慮」の強さに共感している。
![]() | 暗夜行路 (新潮文庫) 志賀 直哉 新潮社 このアイテムの詳細を見る |