「あかざ」は、自然の無常が好き、なぜなら詩は自然の無常と向き合ったとき、「私」のなかに生まれるものだから--という西脇の詩学が鮮明にでた作品である。詩の最初の方に、
だが考える人間の話をするのは
恥かしいのだ。
という行が出てくるが、この「恥かしい」の定義はむずかしい。だから、そのことについては、書くことを保留しておく。
後半の、ことばの動きが、私はとても好きだ。
翌朝はタイフーンが去つたひとりで山へ
あがつて青いドングリの実を摘んだ。
もう人間の話はやりたくない
でも話さなければならない
スリッパをはいて話をした。
紺色に晴れた尖つた山々のうねり
の下でこのテラコタの大人は笑つた
「ソバでも食べてお帰りなさい。また
忘れなければ花梨を送りますぜ」
「テラコタ」は「素焼き」のことだろうか。「素焼き」のように素朴な、いわば「自然の無常」と共鳴するひと--という思いが、西脇のなかにあるのだろうか。
というようなことは、「意味」的には重要かもしれないけれど、これも保留。というか、書くのは省略。
この後半の部分では、「スリッパをはいて話をした。」の1行が、とても好きだ。無意味である。「もう人間の話はやりたくない/でも話さなければならない」という重苦しさを完全に蹴っ飛ばしてしまっている。
「スリッパ」という弾ける音が軽くて、気持ちがいい。
そして思うのだ。最初に「保留」したこと、「恥かしい」のことを。
「スリッパ」の軽い音、そして軽い存在(なくても、まあ、こまらない、少なくとも死ぬことはないなあ)--これが「恥かしさ」の対極にあるものだと。
「考える人間の話をするのは/恥ずかしいのだ。」また、話したくない人間のことを話さなければならないのも「恥かしい」。だから、その話の内容は書かない。けれど、「スリッパ」をはいて話したことは「恥かし」くはない。「スリッパ」のことは書いても「恥かし」くない。だから、書いている。
無意味と軽さ。話(考え?)をつなげてひとつのものにするのではなく、つながっていくものを叩ききることば、その音、その無意味さ--そこに、人間の「すくい」のようなものがある。
最後の2行。
西脇が何を話したか、そんなこととは関係がない。話(講演?)は話(講演)。終われば、話したことばなど捨て去って、ソバを食べる。その断絶のあざやかさ。それに結びつく「スリッパ」である。
![]() | 評伝 西脇順三郎 新倉 俊一 慶應義塾大学出版会 このアイテムの詳細を見る |