小久保佳世子『アングル』 | 詩はどこにあるか

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小久保佳世子『アングル』(金雀枝舎、2010年01月29日発行)

涅槃図へ地下のA6出口より

 巻頭の一句である。とても気に入った。「涅槃図」は開かれている美術展の目玉、ないしは小久保がその展覧会でぜひ見たいと切望している作品なのだろう。だから、美術館への通路ではなく、作品の名前が来る。場所を作品が越えている。地下鉄(たぶん)の出口には、「A6出口」が美術館に通じていると案内してあるのだが、その他人の(?)つくってくれた案内を通り越して、こころがすでに美術館のなかにいる。美術館のなかの「涅槃図」とともにある。その感じが気に入った。「A6出口」という無機質なことばが、小久保のこころの熱さを逆説的に浮かび上がらせている。
 俳句というのは、基本的には、向き合っている対象といったいになり、私が対象であり、対象が私であるというような世界なのだと思う。そういう「定義」(?)からすると、小久保の巻頭の作品は少し風変わりということになるかもしれないが、私は俳句の門外漢なので、こういう作品に惹かれてしまう。
 季語がないのだけれど、こころが先回りする感じが「春」につながる。暗い地下(鉄)から、光あふれる屋外へ。その光の向こうにある「涅槃図」。地下からの出口が「涅槃」につながる--そう思うとき、差しこんでくる光がある。その書かれていない「光」に春を感じる。あるいは、これは、この句を読んでいる「いま」が春だからそう思ってしまうのかもしれないけれど。
 「出口より」の「より」も、なんとなくおもしろい。口語では「から」になる。私は「より」なんて言わない。言った記憶がない。思い出せない。そういうことばがある。けれど、「意味」は知っている。「意味」は知っているけれど、絶対に言わないことば--それに触れると、なんといえばいいのか、「頭」のなかに「肉体」がぐにゅっとねじりこんでくる感じがする。自分の「肉体」ではなく、だれともしれない「肉体」が。「他人」が、「肉体」のまま、入ってくる感じがする。「より」ということばとともにある「肉体」というものが、ぐにゅっと入ってきて、そこから私の「肉体」へともどっていく。喉が、舌が、発声器官が、その「音」をつくりだすために動く。その不思議さ。そのとき、あ、そうだ、そういうことばがたしかにあったのだと思い出す。
 「出口より」、あ、「より」か……と思うのである。
 そして、このときの変化が「涅槃図」ということばが「頭」に思い起こさせるもの、「肉眼」に思い起こさせるものとも、いくらか似ている。「涅槃図」なんて、(なんて、といってはいけないのかもしれないけれど)、まあ、私の関心の外にある。それらしいものはわかるけれど、具体的に思い出すものなどなにもない。なにもないけれど、たしかにそれはあって、そしてただあるだけではなく、ある人々(ある時代)にはひとととても強烈に結びついていた。「より」のように、「肉体」にしみついていたんだなあ、と思うのである。
 そういうものがいっしょになって「地下」とも響きあう。「出口」が導く「トンネルのような通路」とも響きあう。無意識というと少し違う気がするけれど、「肉体」の奥に眠っていたものが呼び覚まされて動きだす感じ--そしてその先にある「涅槃図」。うーん、と考えはじめる。
 そういうものへ、そういうことへ、私のことばは動きはじめる。
 あ、これは「俳句」の鑑賞じゃなくなっているなあ、と思いながらも、まあ、いいか。私は俳句のことは知らないのだし……。

 ほかに気に入ったのは。

山車を曳くわけの分からぬものを曳く

 「わけの分からぬ」がいい。そういうものが、ある。17文字のなかに「曳く」が2回出てくるが、この繰り返しが「わけの分からぬ」と強烈に結びつく、その強烈さもいい。わかっていることは「曳く」という人間の「肉体」の動きだけである。曳いているのは「山車」だけなのか。そのとき「肉体」はいったい何を曳いているのか。たとえば、そこには存在しない「涅槃図」を曳いてはいないか。そしてそのとき、肉体はもしかすると、いま、ここ、ではなく地下の「A6出口」へ向かってはいないか。--もちろん、こういうことは、ここには書かれていな。書かれていないから、きっと私の感想は「わけの分からぬ」感想になっているのだと思うけれど、そういうことを、私は考えてしまう。感じてしまう。

 飛躍して言ってしまうと、小久保のことばは「肉体」をもっている、と感じるのだ。それが、おもいしろい、と感じるのだ。私は。
 抽象が「肉体」をもっている、という感じがするのだ。

無いものを数へてをれば桜かな

 この句にも、「山車」につうじるものを感じた。また、「数へる」「をる」という旧仮名遣いのなかにもある「肉体」も同時に感じた。
 現代仮名遣いにも「肉体」はあるけれど、旧仮名遣いの方が、何かしら「肉体の肉体」という感じがする。強くて、太い。強靱だ。そういうものがあってこそ、抽象というものが動くのかもしれない。動かせるのかもしれない。

ダイバー消え水面に臍のごときもの

 一句選ぶとすれば、私は、この句を選びたい。写生の句ということになるのかもしれないが、この句では「わけの分からぬ」や「無いもの」というような抽象の代わりに「臍」というなじみのある「肉体」が登場する。そして、それが具体的で誰もが知っているもの、知っているだけではなく、もっているものなのに--あ、それが突然、抽象になってしまうのだ。
 「臍のごときもの」だから、それは比喩なのだが、比喩になることで「肉体」が抽象になる。具象が抽象になる。
 小久保はしっかりした「肉体」をもっているだけではなく、その「肉体」をきちんと動かしていく「精神」をもっている。
 そういうことを感じた。

アングル
小久保佳世子
金雀枝舎

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