伊藤啓子「上の湯にて」は、共同浴場でのおばあさんたちとの会話を描いている。
あとから入ってきたわたしのために
ひとりずつ詰めてくれた
横に動くたびに
たっぷりしたお乳やおなかが
順繰りにゆさゆさ揺れ
わたしの風邪ひきそうな体つきでは
気後れしてしまう
まだまだ生きていないという気になる
腰だの足だの
痛むところを順繰りに披露している
隣のおばあさんに
どこからきた 会社が休みかと訊かれた
父の葬式を終えたばかりでというと
んじゃ まだ骨が痛いなといわれ
ほかのおばあさんたちもうなずいている
この地方の
骨折り、のような言い方なのだろうか
湯に浸かっていても温まらない
からだの芯が冷え冷えする
そう言われてみれば
ものすごく骨が痛む気がする
「そう言われてみれば」が気持ちがいい。とても自然だ。人間は不思議なことに、自分の気持ちがわからない。自分のからだがわからない。自分のことを語ることばは、いつでも自分ではみつけだせない。それは他人がもってきてくれる。
他人のことばはもちろん他人のことばであって、自分のことばではないから、それがそのまま自分の感じていることになるわけではない。そこに「思う」(想像する)が入ってくる。そうすると、何かが「ずれ」る。
「骨が痛い」とは、「この地方の/骨折り、のような言い方なのだろうか」。そう思いめぐらしてみると、何気なくつかっていた「骨折り」(苦労)ということばが新しく見えてくる。その「新しい何か」がずれ。
伊藤が書いているのは、それ。
そして。
私は、いつでも、作者が書いていないことを読んでしまう。書いていないのに、それが書かれるはずということを考えてしまう--つまり、「誤読」をするのが大好きなので、ここからちょっと「誤読」してみる。伊藤が書きたかったのは、ふと伊藤をすくってくれた「ずれ」なのだと思うけれど、それはそれとして、ちょっと別なことばで、わたしの感じたことを書きたくなった。
この詩、父の死を書き、その「骨折り」を書いてる--けれど、こっけいでしょ? なんとなく、笑ってしまうでしょ? おばあさんたちの「大内やおなか」の動きもそうだし、「まだまだ生きていないという気になる」という伊藤の思いもそうだし、なによりも、「そう言われてみれば/ものすごく骨が痛む気がする」の、自分のことなのに、自分のことじゃないみたいな、ぼんやりした感じが「くすくす」という感じを呼び覚ましませんか?
なぜなんだろう。
ことばは他人からやってくる--ということと関係があると思う。
「骨が折れる」は日常的につかっている。そのことばの「骨」には意味がない。「骨が折れる」には意味があるけれど、その「骨」には意味がない。それが、「骨が痛い」といわれると、急に「骨」が意識される。
そして、そのとき。
「骨が折れる」というのは、「骨」ではなく、「こころ」の苦労なのだけれど(まあ、肉体的な苦労も含まれはするけれど)、その肝心な「こころ」が一瞬忘れ去られてしまう。「骨が折れる」というのは「こころ」が苦しむではなく、「骨」に負担がかかるということなのだと考え直してしまう。「骨」のまわりに筋肉があって、まあ、からだ全体を動かす。「骨」がいつも中心になって、からだが動く。
この「中心」ということばを手がかりにすれば、そこから「こころ」までの距離はほとんどないのだけれど……。
そこまで、いかない。そこへいくちょっと手前で一呼吸休んでみる。
「笑い」というのは、その一呼吸なんだね。
何かわからないことがある。ここでは「骨が痛い」がちょっとわからない。それはどういうことだろう、と考える。そのとき、ふっと、いままで考えていたことがずれる。その考えは、つきつめれば、論理として完結するかもしれないけれど、(そして自分のことばになんてしまうかもしれないけれど)、そんなふうになってしまうのは、ある意味では「他人」になってしまうことでもあるので、その手前で、ちょっと立ち止まり、全体を見渡す。そのときに、世界の「すきま」みたいなものがのぞいて見える。
それが、軽い笑い。ユーモア。
それによって、伊藤は伊藤自身をほぐしている。それが、疲れたからお風呂でもはいるか……というような感じで休んでいるのがとてもいい。
*
長嶋南子「眠れ」の作品もユーモアがある。そして長嶋のユーモアは、「他人」がほんとうの「他人」ではなく、長嶋のなかから生まれてくる「他人」によって引き起こされる。
わたしには息子がいないようでも
いるようでもあり
おまえが息子のお面をかぶって
自分の胸をつついているのだろう
と声がする
母が眠れないのはかわいそうといって
針を引き抜き
わたしをほどいて縫い直している
母だと思っていたら
おまえは母の仮面をかぶっているのだろう
なにも縫えないくせに
手元を見ればわかる
と別の声がする
これらのことは
本当は眠っているのに
眠れない夢を見ているのだと
自分に言い聞かせる
眠れよ
わたし
伊藤の詩では他人のことばが伊藤を動かした。伊藤のこころを解きほぐした。長嶋は、自分のことばで「他人」をつくりだし、その「他人」に語らせている。そして、そこから「対話」している。
長嶋の笑いの余裕は、そういう自己対話ができるところから生まれている。
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