志賀直哉「山鳩」 | 詩はどこにあるか

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志賀直哉「山鳩」(『志賀直哉小説選 三』岩波書店、昭和62年05月08日発行)

 きのうの志賀直哉を読んだつづき。ついつい、ページをめくってしまった。「山鳩」は書き出しに惹かれた。

 山鳩は姿も好きだが、あの間のぬけた太い啼聲も好きだ。

 ででっぽっぽー、と思わず書いてしまう。カタカナでは、間のぬけた感じがしなくなるからだが、そういう感覚の奥へ深く入り込んでくることばの、短く、剛直な感じがとてもいい。「あの」ということばもいいなあ。山鳩の鳴き声は誰もが知っている。だから「あの」なのだが、「あの」によって、有無を言わさず鳴き声を思い出させる力がある。
 この書き出しの1行だけで、この短編は読む価値があると思うが、最後もまた、とてもおもしろい。
 熱海の山荘は山の中にある。山鳩が2羽で飛んでいるのをよく見る。あるとき、福田蘭童がやってきて、猟をした。獲物は山鳩など、野鳥である。翌日、2羽で飛んでいるはずの山鳩が1羽で飛んでいる。「気忙(きぜわ)しい感じ」で飛んでいる。どうやら福田が撃ち落としたのは志賀が見ていた2羽のうちの1羽らしい。
 次の猟期。

 可恐(こはい)のは地下足袋の福田蘭童で、四五日前に来た時、
 「今年は此辺はやめて貰はうかな」といふと、
 「そんなに気になるなら、残つた方も片づけて上げませうか?」
と笑ひながら云ふ。彼は鳥にとつては、さういふ恐しい男である。

 なんだか笑ってしまうのだが、最後の「恐しい」ということばが、とてもいい。あ、「恐ろしい」ということばはこんなふうに使うんだ、と奇妙に(奇妙に、というのも変だけれど)納得してしまう。
 書き出しの「あの間のぬけた」も同じだが、誰もがつかっていることばなのに、それがぴったりと文章におさまって、動かない。それ以外のことばが考えられない。独特の、ことばの定まり方である。
 志賀直哉は名文家である--というあたりまえのことを、あらためて思った。



志賀直哉小説選〈3〉
志賀 直哉
岩波書店

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