キャスリン・ビグロー監督「ハート・ロッカー」(★★) | 詩はどこにあるか

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監督 キャスリン・ビグロー 出演 ジェレミー・レナー、アンソニー・マッキー

 ふと、「バックドラフト」を思い出してしまった。消防隊員の映画。消火が仕事なのだけれど、その仕事を選んだのは、火が好きだから。火事は起きない方がいいけれど、火事がないと仕事がない。好きなものが、ない……。
 「ハート・ロッカー」はイラクにおける米兵を描いている。主役の男の任務は爆弾処理。彼もまた、爆弾が好きなのだ。間違えれば爆発する。爆発はあらゆるものを破壊する。その「力」が好きなのだ。
 主人公そのものの描写ではないけれど--彼が登場する前の描写だけれど。
 前任者が爆弾処理の過程で死亡する。そのときの映像が「美しい」。爆風によって、こわれた車の上の埃、錆がびりびりびりっと震える。震えながらはがれる。そして、爆弾が炸裂するとき、いっしょに飛び散る。背後で、土が噴水のように噴き上がり、処理に当たっていた男も吹き飛ばされる。
 ひんしゅくをかってしまうに違いない譬えなのだが、あの9・11のツインタワーのビルの崩落の映像のように、私は、それに引き込まれてしまう。そこには「美」がある。
 主人公が実際にそういう「美」について語るわけではないが、監督が主人公の登場の前に、そういう「美」を提出するのは、この映画の基本に、爆弾の「美」があるからだ。
 主人公がひとりで爆弾のうまっている場所へ突き進んで行くときの、不思議な高揚感。それに酔っているような足どり。他人を無視して、自分だけの世界に没入する、その喜び。危険だから、だれもやってこない。世界を独り占めする感覚。そのとき、主人公はひとりの人間ではなく、1個の爆弾なのかもしれない。自分自身を爆弾と感じているのだろう。そういう異様さが映像に満ちている。
 1個、と思って地中に埋まっている爆弾を処理したあと、その爆弾のリード線(?)をひっぱると何個もの爆弾が、地中からずるりと出てくるシーン、そして、それを恍惚の表情で眺める主人公にも、爆弾の、その力を「美」と感じる本能のようなものを感じる。スクリーンは、兵士が異動するとき、しきりに手振れするのに、爆弾の処理のときは、全体的な強さで固定され、その固い映像のなかで、導線が切断され、信管が取り外される。そのとき、爆弾の「力」が主人公に乗り移り、彼自身が「爆弾」そのもの「美」になってしまう。
 だからこそ、主人公自身は、爆発を防いだときの爆弾の部品を大事にコレクションしている。爆弾に対する「偏愛」がある。その「偏愛」と、彼が登場する前のシーンが、私には重なって見える。
 でも、その「偏愛」が、「人間爆弾」の少年の死体から、プラスチック爆弾を取り出すところまでいってしまうと、うーん、醜悪だなあ。理解を超える。一方で、「人間爆弾」に仕立て上げられた少年を愛し、一方でその死体を切り開いて爆弾を取り出し、それを持ち帰るというのは、私にはわからない。
 命懸けのきびしい任務のなかで、主人公の性格が変わっていく。主人公が爆弾処理にのめりこんで行く、爆弾しか愛せなくなって、ふたたび戦場にもどるしかなかった。この人間のむごたらしい変化を、戦争告発するものとしてとらえなおせば、それはそれで意味を持つかもしれないけれど……。
 私は、この映画には与することはできない。
 帰国し、温かい家庭に帰ったはずの兵士が、ふたたびイラクにもどってしまうシーンを、実際に爆弾処理の任務にあたったアメリカ兵はどんな気持ちでみつめるだろう。
 人間の悲しさ、弱さを、どこかで、この映画は踏みにじっていないだろうか。