テラサキミホ「くどがんしょ」は方言で書かれた詩である。
泣がんしょやれ
泣がんしょよ
清々(せいせ)となるまで吐ぎださんしょよ
私(オレ) あんだの愚痴(くどぎ)
笑わねいぞ
まっつぐ聴ぐたげ
笑わねぞい
ここに書かれている「濁音」は美しい。私は昔から清音よりも濁音の方が豊かで美しいと感じていたが、こういうことばを読むと、その美しさが「発声器官」に広がる。
映画「フラガール」では映画のなかに出てくる少女たちが「私」を「オレ」と言っていた。その映画の役者たちのことばが、どれだけ忠実な方言になっているかわからない。私が聞いたことがある「私」を「オレ」と発音する方言はそれだけである。だから私は、実際の「音」がどんなものか、知らない。私の「耳」は、ここに書いてある文字を読んでも、その「音」を聞き取ることはできない。
けれど。
私の発声器官(喉、舌、口蓋、鼻腔)などは、その「音」をたどろうとする。そして、そのとき、「もっと泣きなさい」というときの「声」とはちがった部分が動く。肉体にかかる圧力がちがう。それは、喉とか、舌とかだけではなく、体全体にかかる圧力のちがいとして、体全体を組み立てなおす感じである。
そういうことがあるので、たとえば「泣がんしょやれ」の「が」は鼻濁音ではなく破裂音なのだと思うけれど、その破裂音の「が」さえも、なんだかこころを揺さぶるのである。
あ、きっと、何を書いているか、わからないなあ。私自身、どう書いていいのかよくわからないので、それはまあ、しようがない。
濁音を発音するとき、私は、その音が体の外へ出ていくと同時に、発声器官にせきとめられて、肉体の内部へ音が帰ってくる感じを覚えるのだ。「泣がんしょやれ」の「が」の破裂音さえ、鼻濁音が鼻腔のなかでやわらかく響きあうように、体の内部の何かと共振しているのを感じるのだ。
清音では、すべての音が体の外へ出てしまって、体のなかに何もたまらない。けれども、濁音の場合は、何かが発声器官に押しとどめられて体のなかにたまる。そのたまったものが、次の濁音のとき、共鳴して、濁音そのものを豊かにする。
なんといえばいいのだろうか。
言い残したものがある。だれでも何かを言おうとして、そのすべてを言い切れない。その言い切れなかったものが、不透明なまま、体のなかにたまりつづける。濁音は、そのたまりつづけた何かと共鳴して、不透明な音を響かせる。その不透明さのなかに、不思議な豊かさ、不透明であることの美しさを感じる。
それは、この詩に書かれていることとも通じる。泣く、愚痴をこぼす。そして、そのことばは「濁る」--つまり、まじりあって、今までは存在しなかったものになる。ほんとうはちがうものかもしれないものが、同じ「音」のなかでとけあって、たとえば「愚痴(くどぎ)」は「口説き(くどぎ)」になる。
あ、そうなのだ。愚痴を言うことは、自分の愚痴の正しさを、口で説明しているのだ。「わかってください」と訴えることが「愚痴」なのだ--そんなことが、瞬間的にわかる。肉体が、それを納得する。
不透明さがことばを「ひとつ」にするのだ。その「不透明さ」のなかにこそ、詩があるのだ。
あれこれ書いても、きっと何も書いたことにならないなあ。「愚痴」と「口説く」が融合する、2、3連目を引用しよう。
のぼせだがい
おだったがい
なんたべ ほれもいいごどだべした
私(オレ) あんだの口説き(くどぎ)
笑わねよ
ほれぼれ聴ぐたげ
笑わねよ
おらほのまじない
「口説キ(くどぎ) 愚痴レバ(くどげば)
愚痴レド(ぐどげど) 口説ケ(くどげ)」
ほりゃ 口動(くっちゃい)がせ バカ(ばが)になれ
良いんだて ほんじも生ぎられる
唱えつづげで まんま
死なっちゃら
御の字ばんばん 極楽(ごくらぐ)だ
あとは、「酒乱」で読んでください。私は黙読しかしないが、その黙読のなかで、「音」が肉体のなかに沈み込み、浮かび上がり、だんだん体が軽くなる。つまり(変かな、この「つまり」は……)、こころが軽くなる。
ただ、声に出して、ことばにならないこと、愚痴にしかならないくだくだを言ってしまえばいい。ことばにしてしまえば、ことばにならなかったことも、きっと解放されて透明になる。発せられたことばが不透明であればあるほど、何かが透明になる。
そんなことを思った。