石山淳はさまざまな詩を書いている。そのことばを貫いているのは何だろうか。「「のじぎく賞」考」という作品は、車のなかで練炭自殺を図った女性と、それを助けた人、その行為に対する「賞」について思いめぐらした詩である。助けた人(3人)行為は正しい、と書いた上で、石山はことばをすすめる。
だが、自殺を図った女性は
死の意思をもって 自己を消滅させようとてしていたのだ
個人の意思判断で 現実から開放されたいと願ったのであろう
それを悪徳な行為として 誰が追求することができよう
むしろ 個人の死の意志と自己開放への希いを
3女性は阻止し これを妨害したのではないだろうか
ここに書かれていることは、あることがらを一方的に見つめるのではなく、複数の視点で見つめてみようとする姿勢である。「こと」を中心にして、複数の人間が向き合う。対峙する。そして、その対峙のなかで、石川自身のことばを鍛えていこうとする。
これは、たんに石川自身のことばを鍛えるというよりも、他人のこころをくみ取り、他者の中の、まだことばにならないことばをすくい上げようとする姿勢へとつながって行く。
「母の入院」。
五月の陽射しの爽やかな朝
「ちょっと 待って……」
よろよろしながら
母は 玄関出口で棒立ちになる
まるで見納めでもあるかのように
庭のチューリップや桜草、
樹木までもじっと眺めている
「じっと眺めている」間、ことばは、ただ母の「肉体」のなかだけにある。それは、ただ母の「肉体」を描写することでしかすくい取ることができない。「ああ思っている、こう思っている」と勝手にことばにはできない。だから、そういうことは書かない。書かないけれど、その書かないことに、書くことが含まれる。
そしてそこには、母のことばだけではなく、草花や樹木の「声」も含まれる。草花、樹木はもとよりことばをもたないけれど、彼らがことばをもたないからといって、そのとき母と草花、樹木とがしっかり向き合って、何事かの会話をしなかったということはない。向き合えば、その間に、ことばは動く。
「じっと眺める」はきちんと向き合う、正確に「対峙する」という石川の姿勢が必然的にすくい上げた「人生の美」である。母の姿が美しいのは、そのためである。
*
なにごとかと向き合う、対峙する。そのとき、その向き合ったものの間に、ことばを超えたことばが動く。そのことに通じる不思議な「現象」を石川は書き記している。「幻影の人」。西脇順三郎の『旅人かへらず』の詩を中心にして、いくつかのことばが向き合う。
そのなかのひとつ。遠藤周作のことばと西脇のことばの「対峙」に石川は目をむけている。「3 無鹿」。遠藤の小説に『無鹿』というものがある。「初冬、宮崎県の延岡駅前からバスに乗って無鹿(むしか)でおりた。」この「無鹿」が、西脇の「人間の声の中へ/楽器の音が流れこむ/その瞬間は/秋のよろめき」という行とかよいあう。
これは西脇順三郎の詩集『旅人かえらず』の(略)
一一九であるが、小説の他の個所では<楽器の音(ムジカ)が流れこむ>と
無鹿の感情がルビにより現されていた。
無鹿(むしか)、楽器の音(ムジカ、ミュージック)。この不思議な「音楽」。「意味」を超越して、「音」が響きあい、その響きのなかから、いままで存在しなかったものが突然噴出してくる。
それを石山は、一瞬のうちに把握している。
遠藤周作の小説『無鹿』の書き出しはこうだ
「初冬、宮崎県の延岡駅前からバスに乗って無鹿(むしか)でおりた。」
私は この地名に幻影の人を感じた
鹿ではない鹿
それは 神に仕える牡鹿だった
「無鹿」が「鹿ではない鹿」なら、「幻影の人」は「人ではない人」であり、「ことばではないことば」は詩である。そして、それは「神に仕える」。人間にではないものに。そして、その「人間ではないもの」は、石川の「肉眼」には、人と人のあいだ、ある「こと」をとおして向き合う(対峙する)人と人の「あいだ」に、ふっと姿を現してくるものかもしれない。
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