平岡けいこ『幻肢痛』(2) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

平岡けいこ『幻肢痛』(2)(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 平岡けいこはふたつの世界を生きている。ひとつは「想い」の世界。

地下深く眠るものたちに
私は想いをはせる
古ぼけた棺の中
いくつもの欠けた亡骸
焼けた記憶
繰り返す真夏の裏側
                                (「裏側!」)

 「想う」ことは「過去」を現在に引き寄せることである。そして、それは「過去」をつくりだすことでもある。つくりだすといっても捏造ではない。「過去」に感情、想いをつけくわえることである。感情には「いま」という時間しかないから、「過去」に感情あたえたら、それは「いま」になる。
 でも、この「いま」は、たとえば目の前にいる誰かの「いま」とは違っている。そこに、人間のかなしさがある。「想い」によって噴出してくる「過去」。それをどう共有できるか。
 共有するために、平岡は、書く。

 もうひとつは「もの」自体の世界だ。

枝は歪に伸びても美しい
世界との調和を保っているから
思考のないものは
完璧に存在する
                            (「たとえば<愛>」)

 「もの」には「思考」がない。だから完璧である。--これは、「思考」は間違えるということを逆説的に言ったものである。
 平岡のふたつの世界は「感情」と「もの」と言いなおすことができるかもしれない。言いなおしてもいいのかもしれないけれど、少し違う。そして、私がいいたい「ふたつの世界」の「ふたつめ」はほんとうは、その「少しの違い」のなかにあることである。

 「感情」が引き寄せる「過去の時間」と違って、「もの」は完璧である。それは「思考」を持たないからである。--だが、この対比は完璧ではない。ほんとうに対比させたいならば、「思考」ではなく「感情」ということばをつかって、

枝は歪に伸びても美しい
世界との調和を保っているから
感情のないものは
完璧に存在する

 と言わなければならない。けれど、平岡は「思考のないもの」と「思考」ということばを使う。
 平岡のことばは、ここでは、少し揺れている。独自の動きをしている。その「少し」の「揺れ」のなかに、平岡の「思想」がある。
 平岡は「感情」と「感情を排除した、もの」があると考えているのではなく、世界は感情と思考でできていると感じているのだ。「感情」と拮抗するのは「もの」ではなく、「思考」なのだ。
 「感情」と「思考」が「もの」のなかでぶつかって、世界が動いていく。「感情」と「思考」は一致しない。そしてて、「思考」を排除した「もの」だけが、「感情」には「完璧」な存在として出現する。「思考」が排除された「もの」は、どんな「感情」でも受け入れてくれるからである。「感情」は「もの」そのものになり、「世界」と調和できる--これは、夢である。かなわない夢である。

 「思考」と「感情」の違いは、次の連に書かれている。「たとえば<愛>」の3連目である。

歪な陰をひきずり歩く私という個
あなたと呼べる個を映してしか実感のない
あやふやなかたち

 「わたし」「あなた」という人間。それを平岡は「個」と呼ぶことで「もの」にしている。この「奇妙」なことばの運動が「思考」である。「思考」は存在から何かを剥ぎ取り、共通の「単位」(ここでは「個」)で整理しなおす。共通の「単位」をもったのは「数学」(論理)によって説明できる。そして「数学」(論理)によって、どこまでも動かしていくことができる。純粋に、動かしていくことができる。
 「感情」はそうではない。
 「思考」が「もの」から何かを剥ぎ取って「個」にするなら、「感情」は「もの」に何かをつけくわえることで「個」にする。それはたまたま「個」ということばのなかで重なり合うけれど、ほんとうは完全に別なものである。
 「思考」によって誕生する「個」は「単位」。それは「単位」であるから、基本的に、その「個」は複数なければならない。たとえば林檎を1個、2個と数え上げるとき、「林檎」は1個だけではだめである。複数存在しなければならない。複数存在するものを整理するために「単位」という共通の物差しが必要になる。それは逆に言えば、単位という物差しが、「もの」を「個」という形で生み出すということでもある。そして、その単位としての「個」とは、英語で言えば不定冠詞「a (an)」である。
 「感情」が生み出す「個」は、不定冠詞「a (an)」ではなく、定冠詞「the 」によって特徴づけられる。それはけっして他のものとはまじりあわない。世界でたったひとつである。それは「感情」が「世界」から、「自分自身のもの」として奪い取ったかけがえのないものである。
 どこにでもあるもの、不定冠詞「a (an)」によって整理されるものと、どこにでもないもの、定冠詞「the 」によって特徴づけられるもの。それは、「世界」のなかにあっては、ときとして区別がつかない。定冠詞「the 」によって特徴づけるときの、「感情」というものは目に見えないからである。「実感」は、それこそ定冠詞「the 」でしかありえない、「ひとり」の人間のなかにあるものだからである。

 このどうしようもない(というか、解決不能なとしかみえない)「思考」と「感情」の拮抗する世界を平岡はなんとか和解させようとする。
 「泣いてしまう」(書いてしまう)、つまり「過去」を常に「いま」に呼び出しつづけるという方法がひとつ。そして、もうひとつは……。「たとえば<愛>」の最後の方の連の2行。

忘却の言葉は想像という
優美な手に支えられている

 泣くこと、涙で「過去」を呼び出し、「忘却」という手で、その涙をぬぐうのだ。
 平岡のこの詩集には、「忘却」という手でぬぐいさられた「過去」が書かれている。「忘却」しようとして「忘却」できない「涙」が書かれている。--それは結果的に(?)みると、矛盾である。「忘却」されていない、完全にぬぐいさられていないから。けれど、それが矛盾であるからこそ、それが「思想」であり、「肉体」なのである。
 矛盾、矛盾するしかないことばこそ、信頼に値する「真実」である。「思想」である。




未完成な週末
平岡 けいこ
近代文芸社

このアイテムの詳細を見る