網膜剥離 その後(あるいは、永井荷風「花籠」) | 詩はどこにあるか

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詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 
 網膜剥離で手術をし、その後、私自身のなかで明らかに違ってしまったことがある。ただひたすら読みたくなった。書きたくなった。そして、その書くことに関して言えば、「結論」というものがどうでもらるなった。私はもともと「結論」を想定せずに、ただ書くだけというタイプの人間だが、それでもときどきは、こんなふうに書けば論理がすっきりするかな?とか、私の書いたことが読者にとどけばいいなあ、という欲望をもっていた。できることなら、私が書いたことばが誰かに感動を与えることができればどんなにいいだろう、と願っていた。まあ、それは、ものを書く人間ならもって当然の欲望・願望なのかもしれないけれど。
 その欲望・願望が消えてしまったわけではないけれど、かなり違ってきた。そういう欲望・願望は薄れて、ただひたすら書きたくなった。「結論」など、どこにもない。「感動」なんてものも関係ない。私のなかにある「ことば」そのものを解放したいのだ。何かを読む、何かを見る、何かを聞く--そういう瞬間瞬間に動きはじめることばを、ただ勝手気ままに動かしたい。いや、ことばが勝手に動いていってしまって、「私」というものなど消えてしまったらどんなに楽しいだろうと思うのだ。
 私のことばは「自由」ではない。いまさっき書いたことと矛盾するけれど、私には、まだまだどこかで「結論」を書こうとする意識が残っている。ひとを感動させたいとか、ひとに認められたいとかいう欲望が残っている。そういうものを完全にふっきってしまって、ことばが、ただことばとして「自由」にどこまでも動いていく。私は、そのことばをただ追いかけていく--そんなふうにして、まるで他人の書いたことばを読むようにして、自分の中からあふれてくることばを追いかけたいと思うようになった。

 矛盾してもかまわない。矛盾に気がついたら、あ、これは矛盾だな、と書く。矛盾を解消するために、書き直す、考え直すということはしない。矛盾だな、とことばが気がついて、そのあと、そのことばがどんなふうに動くか、ただ、それを追いかけたい。どんなふうに矛盾を突破できるか、後ろから後押しできれば楽しいだろうなあ、というような感じ……。

 で、思いつくままに。

 荷風全集を読んだ。「花籠」という作品。ルビは面倒なので省略。一部の漢字は簡略化、ひらがなにした。

 然う。静枝の君は少しく顔を赤らめしが、其小さき胸に満々たる喜びは、遂に包まれ難くてや、云ふばかり無き愛嬌あるえくぼを、片頬に漏らし給ひぬ。

 美しい文章だと思う。喜びを胸に隠しきれず、それがえくぼとなってあふれた、というのはいいなあ、目に見えるようだなあと思う。「遂に包まれ難くてや」の「や」が簡潔でいいなあ、とも思う。現代語(?)にするとどうなるのだろう。「だろう」というような間延びしたことばになってしまうのだろうか。言ったか言わないかわからない、ひとことの「や」。こういう短いことばは、もう現在は残っていないのだろうか。
 「小さき胸に満々たる喜びは、遂に包まれ難くてや」という「主語」のとり方(つかい方)、動詞の受け方というか、「受動態」風の文体も、いまからみると(私からみると?)、なんだか西欧風。外国語風。あ、日本語はこんなに自在に「主語」を入れ換えることができるのだ、と感心してしまった。
 なによりびっくりするのは、そのことばのスピードである。「や」や「主語」「受動態」(?)をきれいに取り込む「文語」の力である。「文語」というのは古い、だからことばのスピードが遅い--と感じるのはたぶん間違いなのだろう。「文語」(そして旧かなづかい)が敬遠されるのは、そのスピードが速すぎて、現代の退化した(?)頭がついていけなくなっているからだろう。反省しなければ、と自分自身に言い聞かせた。

 あ、ほんとうの「日記」みたい……。





荷風全集〈第1巻〉初期作品集
永井 荷風
岩波書店

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