詩集を開いた瞬間、ある1行が目に飛び込んでくる。そして、あ、この詩集について感想書きたい、という欲望がふつふつとわいてくる。まだ、1篇の詩も読んでいないのに、その詩がどういうものについて書いているのかさえもわからないのに……。そういう経験することが何度もある。
平岡けいこ『幻肢痛』も、そうした詩集の1冊である。
泣いてしまわねばならない
冒頭の作品の2連目の2行目。それがふいに目に飛び込んできた。そして、その「泣いてしまわねればならない」が「書いてしまわなければならない」と聞こえた。平岡が、この詩を書いてしまわなければならない--と思いながら書いている。その「肉体」の声が聞こえた。
私の「誤読」「幻聴」である。
「誤読」「幻聴」であるとわかっているからこそ、私は、その「誤読」「幻聴」を追いかけてみたい、という気持ちになる。
そして、書きはじめる。冒頭から読みはじめる。「夜明けまで」という作品だ。
限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ
1連目から読んでいたら(普通に詩集を読みはじめていたら)、私はつまずいてしまったかもしれない。1行目は読む気持ちをそそるが、2行目の「つまり」で私はうんざりする。3行目でがっかりする。観念のことばで書かれた説明というものが、私は嫌いだ。「頭」で動かしたことばは嫌いだ。
だが、もうすぐ、あの1行があらわれる。その1行が私を待っている。
私は取り急ぎこの哀しみを
泣いてしまわねばならない
深海に沈む難破船のように
抉れた記憶を生活の裏に沈め
「深海に沈む難破船」「抉られた記憶」。ああ、この無残なことば。読む気がしない。読む気がしない--と書きながらも、私の「肉眼」は「泣いてしまわねばならない」を「書いてしまわなければならない」と耳に伝えている。
何なのだろう、この詩は。
たぶん、その前の行、「私は取り急ぎこの哀しみを」の「取り急ぎ」に、この詩の「秘密」のようなものがあるのだ。「ゆっくり」ではだめなのだ。急いで、急いで、急いで、何かしなければならない。「泣いてしまわねばならない」。急いでいるために、すべてを「肉体」をとおしている暇はない。「頭」で処理できる(?)ところは処理してしまって、しっかりと「泣きたい」。「泣く」ことで「肉体」を回復したい。(「書く」ことで「肉体」を取り戻したい)。
そう、この詩は叫んでいる。
限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ
私は取り急ぎこの哀しみを
泣いてしまわねばならない
深海に沈む難破船のように
抉れた記憶を生活の裏に沈め
立ち去らねばならない 直ちに
古ぼけた懐中時計のねじを巻き
新しい地図を描く
失った翼でできた羽ペンで
弧を描いて
約束が落ちる
守られるはずだった
守られなかった約束たち
それぞれの形に留め置かれ
忘却に晒されるだけ
あいかわらず観念的なことばがつづく。「頭」で書かれたことばがつづく。しかし、その一見すると「頭」で書かれたしか感じることができないことばが、「泣く」ということばのなかで、ぬれて、「肉体」になっていく。
なぜだろう。
実際には「泣いて」いないからだ。
「泣いてしまわねばならない」ということばは、「泣いてしまっていない」ことを告げている。「泣いてしまっていない」。だから「泣いてしまわねばならない」。そして、そういうことばが「肉体」をくぐり抜けるとき、ほんとうは泣きはじめてもいない。泣きたい。泣けるなら、泣きたい。けれど、泣けない。泣けないから、「泣いてしまわねばならない」。
そして、それが「書いてしまわなければならない」と聞こえるのは、そこにはまだ何も書かれていないからだ。
限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ
こんなことばを書いてみても、それは書きはじめてもいない。ことばにたどりついていない。ほんとうに書きたいことばが、まだ、やってこない。書きたいことばは遅れてやってくる。あらゆることばは遅れてやってくる。それは哀しみが、泣いてしまったあとにやってくるのに似ている。哀しみは遅れてやってくる。それを抱き締めるには、抱き締めてしっかり受け止めるには、まず泣いてしまわなければならない。
平岡のことばは、そういう「場」でうごめいている。
泣く、ではなく、「書く」と聞こえた、その1行。書くと聞こえたからには、「書く」ということを「中心」に据えて読み直してみる。「泣いてしまわねばならない」を「書いてしまわなければならない」と読み違えたまま、詩を読み直す。
書く、とはどういうことか。
それは過去を過去にすることだ。過去を「記憶」にすることだ。泣いてしまう、というのは、涙が出てきてしまう過去の出来事を、泣いてしまうことで、過去に封じ込める、過去にしてしまう、ということだ。
ほんとうのキイワードは「泣く」ではなく、「しまう」なのだ。
泣く、書くでは不十分。泣いて「しまう」、書いて「しまう」。それが、平岡の「肉体」が向き合っている世界だ。
しかし。
「抉られた記憶」ということばが平岡の現実をくっきりと描き出している。記憶はえぐられて、噴出してくる。過去はえぐられて、過去からあふれだしてくる。あふれだしてくるもの、しまいこめないものが過去なのだ。
いま、ここ、へあふれだしてこないものは「過去」ではない。あふれだしてきて、涙をさそわないものは過去・記憶ではない。
それをしまいこむために、泣く、書く--ここには矛盾がある。矛盾があるから、「思想」がある。
過去を過去にするために書く--それは過去を過去から呼び出して、よりあざやかな過去にするということである。そうして、いったんあざやかな過去にしてしまえば、それを「出口」にしてさらに過去が噴出してくる。とめどもなく噴出してくる。過去とは、常に、現在の中へと噴出してくるからこそ過去なのである。
だから、何度でも書かなければならない。(何度でも、泣かなければならない)。書いてしまう、泣いてしまうためには、次々に過去を現在に噴出させる、過去を生み出しつづけなければならない。
この矛盾。矛盾だけれど、そうするしか方法がない。それが「思想」というものだ。
矛盾。それが、書くこと。矛盾。それが、泣くこと。
詩は、まだつづいている。
ただ目の前の哀しみを
泣いてしまわねばならない
海のように 繰り返し
赤子のように 揺れながら
希望のように 直ちに
白い月が夜明けと契るまでの
一瞬の けれど
永遠のような
絶望のような
闇を抱えて
今日を消費した焦燥を
なだめなければならない
一日の終わりに
つまり 生活とは
一瞬の闇が無限に続く
その先の壮麗な光なのだ
「繰り返し」泣かねばならない。「繰り返し」書かなければならない。そうすることしか人間にはできないのだ。
「希望のように 直ちに」は、泣くこと、書くことが、「希望」と直接つながっていることを証明している。「直ちに」とは「すぐに」であるが、それは「直接に」の「直」なのだ。
「絶望」と「希望」は直接つながっている。「闇」と「光」は直接つながっている。その「直接」を取り戻すために、何度も何度も泣く、泣いてしまう。何度も何度も「繰り返し」書く、書いてしまう。
ここに、たぶん、平岡の詩のすべてがある。まだ1篇読んだだけだけれど、私は、そのことを強烈に感じた。
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