秋山基夫「神殿」は形が「定型」である。1連目。
灰褐色の細い道が木立や灌木を縫って丘へつづいている。
丘の背後から巨大な石積み建造物の先端がのぞいている。
空は晴れて気温が高く風も吹かないからすぐに汗ばんだ。
同じ文字数。この3行が1連となり、6連で構成されている。特別におもしろいと感じたわけではない。「書く」ことについて、きのうの日記に書いたが、そのことが「体」のどこかに残っていて、その影響で、秋山の作品について書きたいという気持ちになったのだ。
こういう作品を書くとき、ことばの選択は自由ではない。定型詩というのはすべてそうかもしれないが、一種の「不自由さ」が作品を歪める。そして、一定の「形」を要求されることばは、「不自由」なのだが、不自由だからこそ、その圧力を跳ね返して暴走するものがある。形の「外へ」ではなく、「内部へ」。
すぐれた定型詩のなかでは、なにかが暴走している。
たぶん、書きことばの内部での暴走がもっと過激だったら、この秋山の詩は傑作になったのだと思う。この詩はまだ過激な暴走を内部に抱え込んでいない。
定型詩のもうひとつ(?)の形。たとえば西欧の作品にみられる「脚韻」の定型詩。そのとき「音」の形が「意味」の暴走を支える。遠く離れた「意味」が「音」によって接近し、化学反応のようなものを起こす。
そういう暴走とは、この詩は無縁である。
形(1行ごとの文字数が同じ)という定型詩では「意味」ではなく、「音」が暴走しないといけないのかもしれない。
秋山も、そういうことを試みようとしているのだとは思う。
たしかに(というのは、変なことばだけれど……)、文字数のそろった秋山の詩を読みながら、私はその詩に登場する「もの」(内容)よりも、「音」の伸び縮みの感じにひきずられている感じがするのだから。「意味」には驚かないが、その「意味」を支えるために、ことばの「音」がいつもと変わっていると感じることばがある。
たとえば2行目の「石積みの建造物」。あ、こういうことばを、私は書かない。もし、このことばが「話しことば」として聞かされたものだったら、私はたぶん、「えっ、いまなんて言った?」と聞き返すと思う。「石積み」という「和の音」と「建造物」という「漢語(?)」のつながりが、私の耳では聞き取れない。しかし、「石積みの建造物」という「文字」をとおしてなら、その「意味」がわかる。そして「意味」を理解したあとに、「音」が動きはじめる。「音」があってことばがひとつの「意味」になるのではなく、「文字」があって「意味」をひっぱってきて、そのあとに「音」がやってくる。その瞬間を、ちょっとだけ、楽しいと感じる。けれど、それはあくまで「ちょっとだけ」で終わる。
この「音」が、それまでの「意味」や「書きことば」を破壊して、内部に強烈な「音楽」を響かせてくれたら、きっと楽しいと思うのだが……。うまくいえないが、どうも私には不完全燃焼の「音」に感じられる。
別のことばで言いなおせば、「音」が解放されていない。
「文字」によって「意味・内容」は十分に保証されているのだから、音をどこまでも暴走させたらいいのに。(でも、そう書きながら、ではどうやって、ということになると、私にもさっぱりわからないのだが。--私は、まあ、いつものように、無責任な感想を書くことしかできないのだが……。)
あ、何が書きたかったのかなあ。いつものことだが、私には、私の書きたいことがよくわからない。
書き直そう。
文字数をそろえて書く、ということのために、いままで意識されなかったことばが選ばれる。そういうことが起きる。「石積みの建造物」というような、「意味」はわかるけれど、ふつうはつかわないことばが選ばれるということがあるのだと思う。
ふつうは、というのは、あくまで私にとっての「ふつう」だけれど、ふつうは「石積みの建物(たてもの、と読んでください)」か「石の建造物」だろうと思う。言うとすれば。
そして、私は、いま「言うとすれば」ということばを書き足したのだけれど、この「言うとすれば」こそ、もしかすると、この詩を「解きあかす鍵」かもしれない。
この詩は「言う」(話す)ということとは無縁の作品なのである。「言わない」。かわりに「書く」。
つまり、「言うとすれば」石積みの建物、石の建造物かもしれないが、「書くとすれば」石積みの建造物でも大丈夫なのだ。「書く」ということが優先され、「書く」(書いた)ときの「形」が優先され、「音」が運ぶものが犠牲にされている。
それが、この詩である。
だからこそ。
そうなのだ。だからこそ、こういう詩では、「音楽」の暴走が必要なのだ。「犠牲」になった「音」の反撃が必要なのだ。ずーっと「書きことば」に従属させられたまま、奴隷状態のままでは、何か「欲求不満」のようなものがたまってしかたがない。
「石積みの建造物」くらいでは、暴走の起爆剤にはならない。逆に、起爆装置が外されてしまった感じすらしてしまう。
空は晴れて気温が高く風も吹かないからすぐに汗ばんだ。
なんと間延び(?)した1行。そのなかで「音」は苦しんでいる。これでは、何も動いていかない。そして「定型詩」の苦しさだけが残る。
唯一、おもしろいと感じたのは5連目の2行目。
目の前に背中に青い菱形のうろこのあるイグアナがいた。
「イグアナ」という音が、いきなり、それまでの「音楽」を破ってしまう。これが3連目の1行目のように「三角頭の蛇」かなにかだったら、音は重たく、重さのなかで間延びする。
「書きことば」は見かけ上は「音」をもっていない。けれども、その内部に「音」をもっている。「音楽」をもっている。その音に注意をはらうと、書きことばの詩の音楽はもっともっと楽しくなる--そんなことを考えた。
(「誰も書かなかった西脇順三郎」に、これと類似したことを書いています。あわせて読んでみてください。)
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