「一月」の書き出し。
坊主の季節が来た
水仙の香りを発見したのは
どこの坊主か。
美しいものは裸の女神よりも
裸の樹の曲り方だ。
この作品の乱調、音楽が鳴り響く瞬間は、意味の破壊、ことばのイメージの衝突になる。「坊主」と「水仙」という「和」の意味が「裸の女神」(日本にも裸の女神がいるかもしれないが、ギリシャを想像させる)の衝突。そして「裸の女神」ののびやかな曲線(それは直線の一種とさえ感じられる)と「裸の木の曲り方」の衝突。「裸の木」が若い木であって、その若さが女神の若さと競っているのもいいかもしれないけれど、老いた木である方が、その衝突がおもしろい。ごつごつと不自然に(?)曲がってしまった木。その曲がり方の美しさ。東洋の(?)発見。
そうした「意味」の衝突の「音楽」とは別のものもある。
「枇杷」。
火山、松葉ぼたん、雨
ゴーギャンのガンボージの
黄金の肉体の神妙、銀の皿に!
ここには「音」だけがある。「書きことば」なのに、そこには「音」がまず、存在する。「意味」もあるのかもしれないが、私は、たとえば「火山、松葉ぼたん、雨」に「意味」を感じない。その三つを結びつける「意味」が思いつかない。連想ゲーム(?)をしたとして、そのあと4つ目に何が出てくるか? 「ゴーギャン」なんて、出てこない。それは「意味」がないということだ。
「意味」はないけれど、豊かな「音」がある。豊かな濁音がある。「かざん」「まつばぼたん」のなかの「か行」「さ(ざ)行」「は(ば)行」が2行目の「ゴーギャン」「ガンボージ」と響きあう。3行目の「黄金」「銀」にも。
何が書いてあるのか、その「意味」はさっぱりわからないが(特に「銀の皿に!」が何のことかわからない。皿に、どうしたの?)、それぞれの「もの」と「音」はよくわかる。
火山、松葉ぼたん、雨
ゴーギャンのガンボージの
黄金の肉体の神妙、銀の皿に!
ひからびたタヒチのふくべに
わすれられた神々の黒い血に、
危険な種子を垣間見る
そびえ立つ枇杷の実をむく
小鳥の眼の
おんなの旅人の手は無限に白い
何かわかりました? 私は何もわからない。「意味」を知りたいという気持ちにはならない。けれど、最初の3行のことばの出会い、音が音と直接出会うときの、「意味」の拒絶の仕方かが、とても好き。
この詩が、もし文字で書かれず(書きことばとして存在せず)、音だけだったとしたら(話しことばとして聞いただけだったら)、私はこの作品をおもしろいとは思わない。そして、そこに「音楽」があるとも思わないかもしれない。
書きことばによって、そこに「文字」が存在する--そして、その文字を裏切るように(?)音が音自身で動いていく。その不思議さが、書き出しにはある。
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