「過去」というものは不思議である。「過去」は、なぜ、「いま」(現在)という時間のなかに噴出してくるのか。
進一男『小さな私の上の小さな星たち』には、進の年齢も関係しているのか、「過去」がふいに噴出してくる作品が多い。「脳の中に」の全行。
私の脳は小さな記憶で詰まっている
ある旅の屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮
小学時代の同学年で可愛かった人
出会って そして別れた多くの人々の顔
どういうわけで脳が蓄えているのか
と思われるいろいろ
短い詩だが、2行目が読む人によって、解釈(?)がわかれるかもしれない。「ある旅の屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮」。これは、現在? それとも過去? いま進は旅の途中、屋敷町にいて、落ちてきた白木蓮を見て、ふとその花から小学時代のことを思い出したのか。それともいまは別の場所にいて、ふいにかつて旅したとき、屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮--それを思い出したのか。
私は、後者の方で読む。
進は、いま、白木蓮を見ていない。白木蓮を見ていないけれど、それがふいによみがえってきた。
それはイメージとして? 白い大きな花びら。たおやかな、なまめかしい肌の感じをもった花びらとして?
私は、なぜかはわからないけれど、イメージではなく、ことばそのものとしてあらわれたような気がするのだ。もっと厳密に言うと「書きことば」として、「文字」として「過去」から噴出してきたような気がするのである。そして、このとき「過去」というのは「時間」ではなく、1行目に書いてある「脳」である。--ほんとうに理由などないのだが、ただただ「白木蓮」という「文字」が強烈に私を揺さぶる。
その揺さぶりは、もう、進の思い(書き手の思い)とは関係がない。
「白木蓮」という「文字」(書きことば)がふいにどこからかあらわれて、動いていこうとしている。それはこの詩では「小学時代の同学年で可愛かった人」という、なんとういか、センチメンタルなものだが--ああ、違う、と私のなかの「ことばの肉体」は叫んでしまう。
6行の詩のなかで「白木蓮」という「文字」(書きことば)だけが異様に光っている。生々しい力で迫ってくる。その生々しさは、「小学時代の同学年で可愛かった人」なんかでは、エネルギーを受け止めることはできない。「小学時代の同学年で可愛かった人」では「予定調和」になってしまう。
詩にならないのだ。
ことばが「自由」にならない。
--さっき書いたばかりの藤井貞和「山の歌」のつづきというおうか、岡井隆の『注解する者』のつづきといおうか、--その意識のつながりで言うと、「小学時代の同学年で可愛かった人」では「不自由」を感じてしまう。
「現代詩」ではなく、これでは古くさい「詩」である。すでにできあがった詩である、と感じてしまうのだ。
「現代詩」と「詩」をわけるものは、たぶん、このあたりにある。ことばが「自由」であるか、それとも「予定調和」の「意味」に失墜するか。進が書いていることは、とても静に読者のこころに届くだろう。でも、私は、その静けさは「固定された過去」の静けさだと思うのだ。
そして同時に、あ、もっと違った形で「白木蓮」を救ってやることはできないだろうか、とも感じてしまう。
こういう瞬間です、私が、作品を批判したくなるのは。
この作品に比較すると、「片隅から」には「固定された過去」がない。ことばは「固定された過去」から解放されている。
片隅から私を呼ぶような気がした
(そんなことなど有り得ないのだが)
その方角に歩いて行くと
木陰にセントポーリアが一鉢
青々と茂っていたのである
(私はすっかり忘れていたのだ)
「白木蓮」のように、ここでは「セイントポーリア」が美しい。「書きことば」として美しいし、その「音」も美しい。それは「植物」のセイントポーリアを通り越して、「名前」として浮かび上がってくる。「セイントポーリア」という名前で「呼びたい」なにか、として浮かび上がってくる。
そのあとで「青々と茂っている」という状態が、また「ことば」として動く。
このときの、こころの(?)、脳の(?)動き。進は「私はすっかり忘れていたのだ」と書いているが、ここに書かれている「忘れていた」が「過去」からの解放である。進が忘れていたのは、片隅にセイントポーリアを置いたこと--なのかもしれないが、私には、その存在を「セイントポーリア」と呼ぶということばの運動そのものを忘れていたように感じられるのだ。
何かに名前をつける--このことばの動き。その力そのものが、いま、この瞬間に「過去」から「生まれ変わって」よみがえっている。そういう印象がある。
だから、私はこの作品が好き。
読んだときの強烈さでは「白木蓮」の方が、作品全体になじんでいない(あるいは「意味」になじみすぎている、というべきなのか)のに対して、「セイントポーリア」はことばの動きとしてとても自然だ。センチメンタル(意味)にしばられていない。
別な言い方をすると……。
「白木蓮」はたぶん「赤い椿」ではだめ。「ひまわり」でもだめ。それは「小学時代の同学年で可愛かった人」とはイメージがあわない。ことばが衝突してしまう。「意味」にならない。ところが、「セイントポーリア」はもっと別の何か、カタカナの音が交錯するものなら詩としてなじむのである。「意味」をもたないまま、つまり「無意味」として存在することができるのだ。
あ、詩とは(あるいは現代詩とは)、ことばが「意味」ではなく、「無意味」として存在する瞬間のことなのだ。「意味」は「過去」をもっている。「無意味」は「過去」をもっていない。「無意味」は何にも束縛されないからこそ「無・意味」なのである。
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