藤井貞和「山の歌」(つづき、その2) | 詩はどこにあるか

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藤井貞和「山の歌」(つづき、その2)(「現代詩手帖」2010年01月号)

 ほんとうは、もう書くことなどないのかもしれないけれど、藤井貞和の詩について書いているうちに、思いついたことがある。これから書くことは、藤井貞和「山の歌」への感想と言うよりも、ことばそのものへの感想、文学全体への感想(?)になるかもしれない。

 藤井貞和「山の歌」には、たまたま学校文法でいう倒置法がつかわれていて、そのことから「過去」が「いま」にひっぱりだされ、それが「いま」を攪拌しながら、「予定調和」ではない「未来」へ突き進んでいくことばの運動というものが見えてきたけれど、これはあらゆる作品についていえることなのではないか。ことばの運動と言うのは、もともとそれ以外にはありえないのではないか--という気がしてくるのである。
 たとえば、私が50年に1冊の大傑作と思っている岡井隆の『注解する者』。その詩集は、ある作品に「注解」するという基本的な構造をもっている。「注解」というのは、目の前にある作品に対して、何かを言うことである。作品が先にあって、そのあとに「注解」が来る。時系列から言うと作品が「過去」、注解が「いま」、というか作品の後。作品が存在しないことには、注解は存在し得ない。
 そうではあるのだけれど、注解がはじまると、変なことが起きる。
 それは「作品(A)」の注解に、その「作品に先行する別作品(B)」が引用されるということだけではない。Aに対してBの影響云々、ということではない。Aを語るのに、それより「過去」のBがひっぱりだされるということではない。
 変なこと--と私が言うのは、「注解する者」、そのひとの「内部」の問題である。「注解する者」(面倒なので、岡井、と以後書いてみよう)の「過去」がひっぱりだされるのである。「注解する」とき、岡井の「過去」が「いま」にひっぱりだされる。簡単に言えば岡井が「過去」に何を読んできたか、どんな日本語を読んできたかという「事実」がひっぱりだされる。作品Aそのものの「過去」というより、岡井の「過去」、岡井の日本語がひっぱりだされる。
 そして、それは、たとえひっぱりだされた「岡井の過去」が、作品Aよりも前の作品(時代的に古い作品)であっても、岡井自身のなかでは、作品Aよりも前であるとは限らない。作品Aを20代のとき読み、30代のときに読んだ作品Bを利用して、60代(70代?)の「いま」、作品A注解する--そのときの時系列というのは、なんだかとてもややこしい。整理しようとすると面倒くさい。もう、それは、「注解しようとするいま」から見て「過去」のところから何かをひっぱりだすとしか言えないのである。いちいち整理してもはじまらないのである。
 --それは「注解する」というスタイルをというか、見せかけ(?)の形をとっているが、実は、岡井の「過去」の解放なのである。
 「過去」というのは、いわば「固定」されている。「歴史」の法則から言えば、「過去」が変われば「いま」は「いま」とは違った状態である。タイムマシーンで「過去」へ行ったとしても、そこで起きる「事実」を変えてはならない。そんなことをしてしまえば「いま」は違ったものになってしまう。「私」が存在せず、その結果、タイムマシーンで「過去」へやってくるということもできないというパラドックスが起きてしまう。「過去」は「固定」されているだけではなく、「固定しておかなければならない」ものなのである。
 が。
 詩は、そういう「過去」を解き放つのである。ことばを「固定」する何かを破壊し、「いま」のことばの根拠を吹き飛ばしてしまう。「いま」のことばが、どんなふうになってもかまわない、という運動なのである。

 そして。

 なんだか、論理的に(?)書いていくためにどうしていいかわからないので、飛躍してしまうが、そういう「過去」を解放するとき、そのことばを動かしているのは、ことば自身のエネルギーなのである。ことばは「意味」として「固定」される前に、何か、別なものをもっている。何かを名付け、名付けることで動いていこうとするエネルギーをもっている。「意味」が先にあるのではなく、また「意味」が「予定調和」として想定されているのではなく、わからないけれど動いていく。動いていく過程で、「意味」はできあがることもあれば、わけがわからないまま失速し、消えてしまうこともある。
 そういうことが、ことばとことばが出会うとき、起きてしまう。
 ことばに何が語れるか、だれにもわからない。ことばは、作者(話者)のいいなりになって動くものではない。ことばはことば自身で動いてしまう。

 「注解する」という行為は、ことばにこことばを出会わせることで、「過去」という「固定」された何かを解放することである。それも作品Aを解放するというよりも、岡井自身の「過去」(岡井の「日本語の過去」)を解放することである。それは岡井自身を「過去」のことばから解放することでもあるかもしれない。詩集のタイトルが『注解する者』と詩人自身を指しているのは、そういうことがあるからかもしれない。(--というのは、もちろん、ことばが勝手に動いて行ってたどりついたことだから、この先、いま書いていることがどんなふうにかわるか、私にもわからない。)

 岡井の作品にもどるべきか。

 『注解する者』にはさまざまなことばの「過去」が登場した。「文献」としての「過去」。岡井の「日常の過去」(卑近なことを言えば、「注解」する前に、岡井が何をしたか、家族とどんな会話をしたか、テレビ局の人とどんな打ち合わせをしたか、というような過去)。そして、質問者の「過去」(その人が、何を読み、その結果としてその質問をするにいたったか、ということ)。複数の「過去」がぶつかりあう。それも「ことば」としてぶつかりあう。ぶつかるたびに、そのことばの地平が浮き上がる。それがくりかえされることで「ことばの地層」ができる。その「地層」は、どんな地球の地層よりも複雑で美しい。地球の地層は過去→現在と直線上に積み重なるが、ことばの地層はそういう順序とは無関係に入り乱れ、なおかつ地層であるからだ。
 それは、まるで、「ことばの地層」がより美しい「地層」をめざして、自分自身を組み換えているようにさえ見える。岡井は、その「地層の組み換え」に立ち会っているだけ、という気がする。地層を組み換えるのはあくまでことば自身。岡井は、その立会人。
 それじゃあ、岡井の存在意味がない?
 あ、そうじゃないんですねえ。岡井でなければ立ち会えない。というか、そういうことば自身の地層の組み替えを識別し、見えるように定着させるには岡井のことばの強靱な「肉眼」が必要なのだ。岡井の強靱な「ことばの肉体」だけが、自在に動き回ることばをつかみとることができたのだ。
 と、--これは、岡井の『注解する者』に対する、いままでの感想の補足。

 ふたたび藤井の作品にもどれば。
 藤井の「ことばの肉体」がしていることも、ことばの「過去」の呪縛を切り捨てることである。「過去」を分断し、「いま」にひっぱりだし、そこからことばがどんなふうに「自由」に何かを語りうるか。
 これは「現代詩」の詩人がこころみていることのすべてであるといえるかもしれない。そういうことをしていない詩人は「現代詩」ではなく、また別なものを書いていることになるのだと思う。
 「現代詩」は難解であると言われるけれど、これはあたりまえ。「難解」というのは「意味」が理解できない、つか見とれない、ということだろうけれど、「現代詩」に「意味」はないのである。「意味」は「予定調和」として想定されているわけではない。だれも、その「予定調和」のあり方を知らない。書く度に、それはかわっていく。ことばがかってに「意味」をかえていく。そして、それは読む度にもかわっていく。ことばはかってに動いて「意味」をこばみつづける。
 
 詩のなかにあるのは、「意味」ではなく、かってに動く「ことばの肉体」だけである。それはあくまで「ことばの肉体」であるから、作者(話者)、そして読者が動かせるものではない。作者や読者は、ただ「ことばの肉体」の動きについていけるよう自分自身の「肉体」を柔軟にするしかないのである。

 きっと、きっと、どこかに、ことばがことば自身で自由に動き回り、誕生し、また死んでいく「場」がある。その「場」と詩人は切り結びたいのだ。その「場」に立ち会って、死に、そしてもう一度、いや何度でも生まれ変わりたいのだ。
 --そういう「欲望」を感じさせてくれる詩が私は好きだ。



注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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