田原『石の記憶』(2) | 詩はどこにあるか

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田原『石の記憶』(2)(思潮社、2009年10月25日発行)

 田原の詩を読むと、「文字」の美しさに引き寄せられる。一篇一篇読んでいたときには気がつかなかったが、詩集になって、あ、私は田原のことばの、その「文字」の美しさに引き寄せられているのだと気がついた。
 たとえば「ゴーリキーの死」。後半。

ゴーリキー--空高く飛んだ海燕よ
翼の上の陽射しはどんなに燦然としているだろう

 「海燕よ」は「かいえんよ」と読むのか「うみつばめよ」と読むのか。私は判断しない。私は「文字」を見ている。そして、その「文字」のなかに、海と毅然として動く黒い影を見る。そこには「音」はない。形と色だけがある。そして、その形と色(黒い影)を、「空高く」が追い越していく。「空高く飛んだ海燕」は「空」より高くあるのはずなのだが、その「燕」という画数の多い文字の「影」が、なぜか、その「影」を追い越して「空」がさらにさらに高く上昇していくというイメージを呼び起こす。
 そして。
 「翼の上の陽射し」。それは、「海燕」を上から見下ろし、翼を輝かせている。「燦然」としているのは文法上は「陽射し」だが、なぜか、陽射しに照らされた「海燕」の「翼」のように思えてしまう。目に見えるのは、天と地を結ぶ空のひろがり。そのなかにあって、下から見れば「黒い影(翼の影)」、上から見れば「翼が輝く」という感じなのだ。
 「意味」ではなく、「文字」が運んでくる何かを私は「目」で判断し、その「目」のなかに見える対比、小さい海燕と天地に高く(深い)空、黒い影と輝く翼--というイメージなのだ。
 「意味」ではなく、「音」でもなく、ただ「文字」に私は反応している。

 この反応は、最終連では、もっと激しくなる。

一九三六年五月十八日
あなたの名前をつけた飛行機の墜落は
一種の前兆のようだ
六月十八日午前二時十分
アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフが死んだ

 「五月十八日」と「六月十八日」。この、一か月の「時差」を私は「時間」の差としてではなく、つまり、そこに「時間」があるというとらえ方ではなく、「文字」の違い、一種の「書き間違い」のようにして受け止めてしまうのである。「書き間違い」と感じるような、不思議な錯覚--「意味」ではなく、「文字」が運んでくる一種の「形」の違いが引き起こす錯乱として私は感じてしまう。その錯乱に「午前二時十分」がつけくわえられると、錯乱を度の強い眼鏡で強制的に魅せられたような、なんともいえない強烈な印象が残る。ここまで見えなくてもいい、というものまで見させられたような(それも、人間の力を超えるもので、たとえば神の意志のようなもので、見させられたような)、特権的な印象が残る。
 「音」でも「意味」でもない。「文字」の「ずれ」、「揺れ動き」。そのなかに、私は、どう説明していいかわからないが、「美しさ」を感じる。
 最終行はもっとすごい。

アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフ

 このカタカナの羅列に、私は気が狂いそうになった。なんという美しさ。田原は中国人である。カタカナは習得した外国の「文字」である。それを、こんなに美しく書き散らすなんて。
 「書き散らす」と思わず書いてしまったが、そこには、なぜか「文字」が散らされて、その散らばりが美しい抽象画になっているという印象がある。
 私はカタカナ難読症で、初見のカタカナを正確に読むことができない。カタカナは読むのではなく、何度も音を聴いて暗記してしまわないかぎり、私には正確に発音できない。だから私の感じていることは、ほかの人には当てはまらない感想かもしれないが、ともかく美しいのだ。
 そこには海燕と空と、影と光の交錯、そして、「五月十八日」と「六月十八日午前二時十分」の交錯が、整然と、同時に乱調のまま、きらきら輝いている。

 「狂想曲」の次の1行。

モンゴル 決まって地平線から昇ってくる草原

 あ、私はことばの「意味」を追っているのか、それとも「文字」そのものを追っているのか、ここでは「アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフ」ほどはっきりと自覚できないけれど、「地平線」という「文字」がそのまま「草原」という「文字」にのみこまれていくのを感じる。「地平線」という「文字」は私には「平ら」にも「ひろがり」にも感じられないが、「草原」、とくにその「草」という「文字」が「地平線」のすべてに見えてくる。「草冠」の横に真っ直ぐな線は、縦の2本の線によっていっそう水平方向に強調される。その下の「早」、「日」と「十」の組み合わせ。「草冠」が遠景なら、「日」は中景。完全な形。完全な形のなかに、横線があることで、その完全さを揺るぎないものにしている。そして近景の「十」。縦と横があるから、ひろがりがはじまる。ひとは縦へも横へも自由に動いて行ける。その動きのなかから「ひろがり」が生まれる。

 なぜ、こんな奇妙なことを感じてしまうのか、よくわからないが、きっと、きっと、きっと、田原のことばの「文字」が美しいからだ。そう思うしかない。