誰も書かなかった西脇順三郎(88) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「夏(失われたりんぼくの実)」は最初に俳句のような不思議な1行がある。俳句なのかな? 「人間の記号が聞こえない門」。「人間」の「間」と「門」の向き合い方がとても気になるのだが、「聞こえない」ことのなかに、何かを見ているのかもしれない。

黄金の夢
が波うつ
髪の
罌粟(けし)の色
に染めた爪の
若い女がつんぼの童子(こども)の手をとつて
紅をつけた口を開いて
口と舌を使つていろいろ形象をつくる
アモー
アマリリス
アジューア
アーベイ
夏が来た

 「アモー」からはじまる行の展開がとても好きだ。耳が聞こえないこどもに読唇術を教えているのだろうけれど、その聞こえない耳へむけて発せられる音の美しさ。口の形が、他の存在と結びつく。そのとき、こどもの「肉体」のなかで何が起きているのだろう。わからないけれど、そこにも音楽がある、と感じさせる音の動きだ。
 こどもは、若い女の「口」という肉体の門をくぐって、世界につながる。聞こえないけれど、聞こえないまま、若い女の口の動きに自分自身の口の動きを重ねる。「肉体」の重なりが、「肉体」のなかで音になる。「アモー/アマリリス/アジューア/アーベイ/夏が来た」。突然、やってくるいままでと違う音。その瞬間、その夏は「光」である。音のない世界の、「肉体」のなかの闇(?)から、「声」、まぼろしの「声」になって噴出してくる真っ白な光のように感じられる。 
 そして、「アモー/アマリリス/アジューア/アーベイ/夏が来た」というリズムだけを引き継いで(と、私には感じられる。リズムだけ、というのは「意味」を引き継がずに、ということである)、新しい行が展開する。

オルフェ コクトオ ガラス屋の背中
オルフェの話を古代英語で読まされた
ブリタニアの日のかなしみに
暗い空をみあげるのだ
ガラスの神秘
カーリ(詩の女神)の性情
連想を破ることだ
意識の解釈をしない
コレスポンダンスも
象徴もやめるのだ

 その新しい展開のなかで、ふいに、西脇のことばの運動を、西脇自身で解説したような2行が登場する。「連想を破ることだ/意識の解釈をしない」。そこに詩があると、西脇はいっているような気がする。
 連想を破る。「アモー/アマリリス/アジューア/アベーイ」という音の動きのように。そこには音があるだけで、それらのことばを結びつけるものはない。音は、音そのものに分解される。なぜ、「アモー」のあとに「アマリリス」かなど、解釈してはならない。ただ音だけになる。
 オルフェも、コクトオの書き直したオルフェも、きっと「意味」を解釈してはだめなのだ。ただ、そこにある「音」として、あじわう必要があるのだろう。
 必要--などということばを書いてしまうと、そこには、もう「意味」が入ってくるから、こんなことは書いてはいけなかったのだ、とふと思う。




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西脇 順三郎
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