岬多可子「領分」 | 詩はどこにあるか

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岬多可子「領分」(「左庭」14、2009年08月30日発行)

 岬多可子「領分」のことばは、ことばの「領域」が少し私の感覚と違う。違うのがいけない、というのではなく、その違いの中に、ふっと吸い込まれて、あれこれと考えてしまう。
 1連目。

てくらがり という
ちいさな薄闇のなか
生きていたものたち
刃も使い 火も使う
薄い闇で 口元を覆い
種の蜜を しつこく啜ったりもする

 「てくらがり」というのは、手によってできる暗がりのことである。それはもちろん明るい時は問題にならない。光が(日が)陰り始めたとき、自分の手によって、手本が暗くなり、手を使った仕事が少し不便になる。少し不便だけれど、手は手で(肉体で)いろいろなことを覚えているから、それなりに動くことができる。私は、そんなふうに「てくらがり」の「意味」を考えている。
 この手が手で知っていること、肉体が覚えていることを、岬は「生きていたものたち」と定義しなおしている。
 ふーん。なるほど。
ことばにはなりきれないいのち、未生のいのちが生きている。それが「てくらがり」という「領域」なのだ。
そして、その「領域」では、岬の手が(肉体が)動くだけではない。手が動くとき、その手に触れるものがある。たとえば夕御飯を準備する。その時、魚が、野菜が手に触れる。その魚や野菜の「肉体」が、「てくらがり」という「領域」のなかで触れ合う。「てくらがり」は、岬の「肉体」と、魚や野菜の「肉体」が「いのち」を触れ合わせる「場」でもあるのだ。
 「いのち」と「いのち」を触れ合わせるためには、明るい光ではなく、静かな暗さ、「てくらがり」が必要なのだ。他者の、魚や野菜のいのちを切ったり煮たり焼いたりする暴力を和解させるためには、光ではなく「てくらがり」が必要なのだ。

 こういうことは、しかし、どういえばいいのかわからない。だから、岬は、ことばを動かす。ことばで、まだことばになっていない「領域」へ踏み込んでゆく。ことばにしようとする。
 つまり、詩を書く。

そして 針と糸で編みあげる
羽は 飛ばさない一語の代わり
実は 落とさない一語の代わり

うなだれて
みずからの影をしたたらせ
できた薄墨のような
みずたまり の そこしれず
赤い小えびや青いたまご
視線や感情
沈ませて 静まらせて

 ここにも不思議なことばがある。「みずたまり の そこしれず」。「そこしれず」は限りない、無限という意味だと私は理解しているが、「みずたまり」がたとえ比喩だとしても、そこに「無限」があると想像するのは苦しい。
 けれど、そのことばの運動が苦しいだけに、その苦しい部分に引き込まれてしまう。
 むりをしてでも言いたいことがあるのだ。

 台所の、シンクの「みずたまり」。それは「つくらがり」の別の形なのだ。シンクの「みずたまり」は「てくらがり」なのだ。だから、「みずからの影をしたたらせ/できた薄墨のような」ということばがある。「みずからの」、つまり「自分の」影、その「薄墨の」(「てくらがり」では「薄闇」だった)なかで、いろいろなものを和解させる。「赤い小えびや青いたまご」と、岬自身の「視線や感情」も。
 この「和解」を岬は、「沈ませて」という物理的な運動で書いたあと、すぐに「静まらせ」
と「精神」に通じることばで定義しなおす。

 物理(もの)から精神へ。岬のことばは、そんなふうに動き、深さ、広さを獲得する。それはいつでも、「わたくし」を広げ、深める運動なのだ。

だれもまだ 起きてこない 朝方
だれもまだ 帰ってこない 夕方
周囲の明暗は いそぎうつりかわり

てくらがり という
いつも熱っぽく湿った薄闇のなか
わたくしが おこなっているのは わたくし

 最終行は、「わたくし」が「わたくし」に「なる」――と、私は読んだ。
 ことばにならないものを、いまあることばを微妙にずらした形で動かしながら、ことばにする。隠れて見えない存在を、運動を、ことばのなかにすくい取り、そのことばの運動としての精神を「わたくし」と定義し、新しい「わたくし」になる。
 新しい――とはいっても、それは、ことばにならないまま、「てくらがり」のような「領域」にひそんでいた「わたくし」だ。だから、それは「わたくし探し」の運動といってもいい。
 そうやって獲得した領域を、岬は「領分」と呼んでいる。「わたくしの領分」、誰のものでもない、自分の「分」と。


桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田

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