柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(2) | 詩はどこにあるか

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柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(2)(書肆山田、2009年08月31日発行)

 「穴」という作品も、非常に印象に残る。全行。

穴は 穴であることに
びっくりしている

あいた口がふさがらないとは
このことだ

それは冬のはじまり
夕方の風呂場でのことだ
浴槽の栓を抜くと
流れる音がながくつづき
最後にくずれる音にかわり

穴が
ま上をむいて
今さらのようにびっくりしていた

ここに存在しないこと
(ここに存在するから
水がぬけてしまうこと!

 引用してみて気がついたのだが、ここには「こと」がたくさん出てくる。きのう「こと」のなかに柿沼の「思想」があると書いた。
 そのつづきが書きたくなった。(と書いたのは、ほんとうは、ちがうことを書こうと思っていたのだが、急に、書きたいことが変わったということである。--私はいつでも、突然、書きたいと思っていることがかわってしまう。)

 最終連は「存在すること」と「存在しないこと」が同時にありうるという「矛盾」を描いてる。
 ほんとうかな?
 いや、ちがう。「穴が存在すること」と、「水が存在しないこと」というのは、「矛盾」しない。「主語」がちがうとき、動詞が矛盾していても、それは矛盾にはならない。だから、ここには「思想」はない。「思想」はいつでも「矛盾」のなかにしかない。「思想」は「矛盾」を突き破ったとき、「思想」になる。
 それは、つまり、かわってしまう「こと」のなかに、「思想」があるということだ。

 「こと」とは「かわる」ことと関係している。「かわる」ことと「思想」は関係している。

浴槽の栓を抜くと
流れる音がながくつづき
最後にくずれる音にかわり

 ここに「かわる」がある。水が「流れる」音。それが「くずれる」音にかわる。「かわる」というのは「主語」が同じで、「動詞」が異なることだ。「主語」が同じで、その「運動」がかわる。「動詞」が飛躍する。「動詞」がみずからの「動詞」を突き破って、別の「動詞」になる。
 「思想」というのは、そういうものだ。
 水が「流れる」音、「くずれる」音--では、形而上学的なことはなにも起きないから(ほんとうは起きているかもしれないけれど)、そこに「思想」であると言ってしまうと奇妙な印象を引き起こすだろうけれど、そういう「動き」のなかにしか、「思想」はないと私は思っている。「流れる」から「くずれる」にかわる「こと」のなかに「思想」があると思う。
 もし、水が「流れる」音から「くずれる」音にかわらなかったら、つまり、水がずーっと「流れ」つづけ、その音が変わらなかったら、「穴」は「穴」であることを発見できなかったのではないのか。(自分が何者であるか発見するのは「思想」の大切な仕事だ。)「穴」を水が通りつづけるので、「穴」は「穴」であることをしらずに、「トンネル」と思い込んでいたかもしれない。
 「穴」が「穴」であると発見するためには、そこを通る水がいつか通らなくなるということがなければならない。「穴」が「穴」であることを発見するためには、「穴」は「水」以外のものに触れなければならない。
 知らないもの--未知のもの、他者が「穴」が「穴」であることを発見させるのだ。(水も「他者」にはちがいないが、ずーっといっしょだったので、「他者」であることを意識できない存在である。)
 そして、その「知らないもの」をつげるのが、水の音の変化である。そこに「他者」の登場のきっかけがある。「他者」の変化、「他者」が「かわる」ことが、「自己」の存在の変化を気づかせるのだ。--自分もかわりうるということを、教えてくれるのだ。

 最初思っていたこととちがったことを書きはじめたので、なんだか、まとまりのない文になっていく。
 書き出しの2行にもどる。(もう、忘れてしまった、最初に書こうとしたことを思い出してみる。)

穴は 穴であることに
びっくりしている

 ここにあるふたつの動詞「ある」と「びっくりしている」。その落差というか、隔たりというか、不思議な距離に「思想」がある、と私は思う。(びっくりというのも、発見である。発見だからびっくりするのである。)
 「主語」は「穴」。共通している。「動詞」が「ある」と「びっくりしている」と、ちがっている。そして、その「ちがい」を結びつけているのが「こと」である。「こと」ということばをはさむことで(通ることで)、「動詞」が「ある」から「びっくりしている」にかわる。自分自身を突き破ってしまう。
 そして「穴」である「こと」について教えてくれたのが「水」である。水の音である。「流れる」音、「くずれる」音。遠くから聴こえてくるその「音」の変化が、「穴」を「穴」にする。

 何かきちんと定まった形がある「もの」ではなく、その形がこわれ、「もの」が「こと」になる瞬間--そこから「思想」は動きはじめる。
 きのう読んだ「卵」を思い起こす。
 卵は落下し、殻が破れて、中身が飛び散る。卵という「もの」がこわれて、「こわれる」という「こと」になる。その「こと」をみつめる「こと」。そこに「思想」がある。

 「穴は あなであることに/びっくりしている」の「こと」には、それに通じるものがある。