蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」 | 詩はどこにあるか

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蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」(「読売新聞」2009年09月12日夕刊)

 蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」の最後の部分に引き込まれた。

 読んでいるうちに「私」が買った一つの檸檬は存在感を増していく。作品のなかで、視線を集める。同時に、消えていく。まるで天体の誕生(たんじょう)と消滅(しょうめつ)を思わせる。だれにとっても、ある日の、そんなものがあるだろう。「私」にとっての檸檬のような存在が。つまり、気もちが切り替(か)わる軸(じく)になるもの。思いがけず心の角度を変化させるもの。今日の檸檬と出会いたい。計画なしで、ふらりと、確かに。

 「作品のなかで、視線を集める。同時に、消えていく。」この矛盾した指摘がとてもいい。
 矛盾なので、そのあと、何度も何度も、それをいいかえる。
 「天体の誕生と消滅」ということばはかっこいいが、そういうものを具体的に見た人はいない。「頭」で、「知識」として知っているだけ。だから、また、それを言い直す。「檸檬」にもどり、「気もち」という誰もが日常的に知っていることばで。でも、やはり宇宙に関係づけて言いたい。だから、宇宙よりも身近な(たぶん)地球を引き合いに出して、「軸」ということばをつかう。地球の軸、地軸の「軸」。
 そしてまた、檸檬。
 最後に、作品の分析(?)ではなく、蜂飼自身の欲望。
 この、行ったり来たりの変化、うごめき――そこが、とてもおもしろい。




食うものは食われる夜
蜂飼 耳
思潮社

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