柿沼徹『ぼんやりと白い卵』 | 詩はどこにあるか

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柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(書肆山田、2009年08月31日発行)

 柿沼徹『ぼんやりと白い卵』はタイトルになっている1行がある「コバヤシの内部」が非常におもしろい。ただ、そのおもしろさを、きちんと説明できるかどうか、私にはよくわからない。でも、書いてみたい。「コバヤシの内部」について書きたい--という気持ちにさせられる。

眠りから放り出されると
昨夜の会話の足跡のように
食器が散在している
明け方の食卓

その上に
一個の卵がある
傷ひとつなくそこにあることが
うすくらい光のなかで
私に向き合っている
それ以外は夜明け
底知れない夜明けだ

ぼんやりと白い卵
せめて呼びかけてみたい
例えば…
コバヤシ、と呼んでみる
と、それは
見たことのない一個にみえる
手のひらのうえの
コバヤシの固さ
やわらかな重さ

 「呼んでみる」。ここに、「思想」を感じる。何かを「呼んでみる」。それは、ここで取り上げられている「卵」だけのことではないのだ。
 たとえば1連目。
 食器が散らかっている食卓。そのありようを「昨夜の会話の足跡のように」と、柿沼は「呼んでみる」。ほかの言い方もできるのだが「昨夜の会話の足跡のように」とことばにしてみる。
 何かを、呼んでみる。ひとの呼ばない名前(ひとのつかわない言い方)で、ことばにしてみる。ことばにした瞬間から、何かが違ってしまうのだ。
 1行目。
 「目が覚めると」と書くこともできるかもしれない。しかし、柿沼は「眠りから放り出されると」と書く。そのときから、柿沼は、柿沼の「内部」と向き合っている。「眠りから放り出されると」ということばはなじみやすい。「昨夜の会話の足跡のように」というのは少し変わっているけれど、それでもなんとなくわかる。きっとその会話は楽しいというよりも、少し棘がある会話かもしれない。そのときの「ぎすぎす」した感じが、食器が散らばっている感じと重なり合う--というのは、もちろん、私だけの想像かもしれないけれど、そういう想像を誘うことば、柿沼の「内部」に何かが起きていると感じさせることばである。

 「ことば」は、それを発したひとの「内部」を感じさせる。「目が覚めると」という表現では「内部」はほとんど感じられないが、「眠りから放り出されると」では「内部」を感じてしまう。自分から目覚めたのではなく、何かに放り出された--そこに「他者」の力が働いている、他者の影響がある、と感じさせる。「昨夜の会話」の相手が「他者」かもしれない。
 そんな、あれやこれやを、ともかく感じさせる。その「あれやこれや」を私は勝手に「内部」と呼んでいる。

 そんなあれやこれやを抱えた「内部」としての柿沼が、卵と向き合う。
 おもしろいのは、そのことを、柿沼(私)は卵と向き合うといわずに、「私に向き合っている」と書いていることである。「卵」が主体なのだ。私が向き合うのではなく、たまごが向き合う。しかも、卵というよりも、正確にいえば、「そこにある」ということが向き合っている。
 「そこにある・こと」。つまり「こと」が向き合っている。「もの」ではなく「こと」が。

 それが「もの」ではなく「こと」であるからこそ、「コバヤシ、と呼んでみる」ということが可能なのだ。「そこにある・もの」は「ぼんやりした白い卵」であるこけど、「そこにある・こと」は「卵」ではない。
 「もの」と「こと」は厳密に区別するのはむずかしいのだが……。
 一個の卵。それは「固さ」であり、「重さ」である。そして、その「固さ」「重さ」というのは、卵にとって「もの」なのか。それとも「こと」なのか。私には「こと」に思える。「固さ」は「固いという・こと」。「重さ」は「重いという・こと」。「やわらかな」ということばも出てくるが、「やわらかな」とは「やわらかいという・こと」

 「もの」もこわれるが「こと」もこわれる。

コバヤシを床に落とす
コバヤシは落花のさなか、ま下に
今を見すえる

耳のなかで
かすかに列車の音がひびく
コバヤシが
床に乱れているコバヤシの内部が
朝方の光をうけている…

 「卵・コバヤシ」が落下する。そのとき、「卵・コバヤシ」は「今を見すえる・という・こと」をする。「今を見すえる・という・もの」になるのではなく、「見すえる・という・こと」をするのだ。
 そして、その結果、こわれるのは「内部」という「もの」ではなく、「内部」という「こと」である。「かすかに列車の音がひびく」という「こと」。そんな音を想像している柿沼--そのこころでおきている・ことが散らばり、朝の光を受けるのだ。

 「内部」は「もの」ではなく「こと」でできている。
 1連目に戻る。
 「眠りから放り出される」と書くとき、「眠りから放り出される」という「こと」が柿沼の「内部」で起きている。「昨夜の会話の足跡のように」とことばが動くとき、後片付けのすんでいない食器という「もの」が、「昨夜の会話」、話しあった「こと」になっている。そしてその話し合いがこころに残した「もの」ではなく、話し合いがこころにのこした「こと」がいま、柿沼を動かしている。
 そういう「こと」へ向けて、柿沼は「コバヤシ、と呼んでみる」という「こと」をするのである。

 「こと」と「こと」が触れ合う。「こと」はこわれながら「こと」になる。「明け方の光をうけている」という「こと」。
 それが「こと」だから、なんとなく、まだ、再生が可能--というような、希望のようなものがある。とりかえしがつかない、というのではなく、まだまだ「こと」を繰り返してゆける、というような「こと」を感じてしまう。

 唐突かもしれないが。

 「こと」というものに、「いのち」を感じた。だから、「こと」を中心に動く柿沼のことばを「思想」と呼びたくなったのだと思う。




みたことのある朝
柿沼 徹
詩学社

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