誰も書かなかった西脇順三郎(83) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 

 センチメンタルにつながることば、抒情にまみれたことば--というものが、私はどうも好きになれないが、西脇がつかうと、とても清潔に、宝石のように輝いてみえる。たとえば「涙」ということばさえも。
 「冬の日」の最後の行に出てくる。

或る荒れはてた季節
果てしない心の地平を
さまよあ歩いて
さんざしの生垣をめぐらす村へ
迷い込んだ
乞食が犬を煮る焚火から
紫の雲がたなびいている
夏の終りに薔薇の歌を歌つた
男が心の破滅を嘆いている
実をとるひよどりは語らない
この村でラムプをつけて勉強するのだ。
「ミルトンのように勉強するんだ」と
大学総長らしい天使がささやく。
だが梨のような花が藪に咲く頃まで
猟人や釣人と将棋をさしてしまつた。
すべてを失つた今宵こそ
ささげたい
生垣をめぐり蝶と戯れる人のため
迷つて来る魚狗(かわせみ)と人間のために
はてしない女のため
この冬の日のために
高楼のような柄の長いコップに
さんざしの実と涙を入れて。

 なぜ、西脇の「涙」が清潔なのか。
 「涙」が登場するまでに、さまざまな「脱臼」があるからだ。
 「乞食が犬を煮る焚火」には、はげしい野蛮のいのちが輝いている。それは、ふつういう「涙」の対極にある。涙は、野蛮ないのちではなく、繊細なこころである。
 しかし、繊細なこころというのは、単純ではない。
 「犬を煮る焚火」の煙を「紫の雲」というとき、「紫」を感じるこころは繊細であると同時に冷徹である。さらに、その比喩としての「雲」を「たなびいている」というとき、そのこころは、もしかすると「犬を煮る」こころよりも野蛮かもしれない。乞食が犬を煮るのは「いのち」のためである。そこから生じる煙を「紫の雲がたなびいている」と言ってしまうのは、「いのち」とは無関係である。人間の感性は、野蛮である。感性の美しさは「繊細」であるだけではなく、「野蛮」でもある。「野蛮」であるから、暴力を含んでいるから、つまり何もかを壊しながら輝くから「美」なのである。
 野蛮とは、非情ということでもあるかもしれない。 

 冬の村の、非情。厳しい自然。人間の事情など配慮しない風景。その風景から、さらに「人間の同情」を奪いさっていく感性。そのなかで理性は「ミルトンのように勉強するんだ」と主張する。それは、感性以上に野蛮であり、感性の野蛮をさらに徹底するから、美しい。
 異質な世界が、それぞれ野蛮を、つまり「本能」を本能のまま剥き出しにして、互いに配慮することなく、ぶつかる。その瞬間の「脱臼」。
 そこでは何かがかみ合って、「美」を構成するというよりも、それぞれが互いを破壊することで、叩き壊す力としての「美」を発散するのだ。
 その瞬間にも、自然は「梨のような花が藪に咲く」という具合に勤勉である。季節がくれば、本能のままに勤勉に花を咲かせる。一方、人間は怠惰である。「ミルトンのように勉強する」どころか、「猟人や釣人と将棋をさしてしまつた」。
 異質なものが出会い、衝突し、そのとき世界が「脱臼」しながら、拡大する。
 その「脱臼」「拡大した裂け目」--それは、一種の「無重力」である。
 文体の重力から解放されている。「常識」という日常の重力からも解放されている。
 その重力から解放されたところに、ふと「涙」がまぎれこむとき、その「涙」はやはり「無重力」状態にある。どんな文体(過去の歴史)も背負っていない。
 だから、清潔で、軽い。そして、まるで宝石のように輝く。



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