伊藤悠子「海草を干すように」に、左古真由美『あんびじぶる』に通じるものを感じた。
なにげなく なによりも 自分たち自身に なにげなく思えるだけの時間
をかけて 知らない土地へと 自分たちを移していけないものか いつし
か 移っていたということはあり得ないか 自分とそしていつも連れてい
るこの小さな子という自分たち二人を 見知らぬ土地へと転がしていく方
策を 静かな鳥のように海を見つめながら考えている
遠くの浜で
漁師が二人海草を干している
一人は背が低く女かもしれない
二人は夫婦かもしれない
移っていくことを生業として
移っていくことを考える
たとえば海草を干すようにして移っていくのだ
浜に
今日は今日一日分の海草を干す
明日は今日終わった処にロープを張る
小さな子に渡してもらった海草を干していく
あさっては明日の終わった処にロープを張る
小さな子は手伝いが好きで
「はい」「はい」と渡す
海草を干したロープが
浜に続いていく
えんえんと
伊藤にももちろん「心眼」というものがあるのだが、伊藤は「こころの目」よりも「肉眼」を信じているようである。見えないものを書こうとはしない。見えるものを書く。ただし、その見えるものを、少しずつ「移していく」。海草を干すロープのように。どこまで進んだかをきちんと印をつけながら、少しずつ少しずつ、進んで行く。そして、その少しずつを延々とつづけていたら、いつのまにか「いま」「ここ」が「いま」「ここ」ではなく、「見知らぬ土地」だった--そういうことばの動かし方をする。
その、見えるものをきちんと見て、それを引っぱっていく(移していく、と伊藤は書いているが)力に、私は、詩を感じる。
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