左子真由美『あんびじぶる』 | 詩はどこにあるか

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左子真由美『あんびじぶる』(竹林館、2009年08月14日発行)

 アンビジブル--みえないもの。たとえば、「輪郭」。「輪郭」そのものは見えるけれど、その輪郭のなかに見えないものがある。「輪郭」という詩の全行。

りんごをなぞるように
きみのりんかくをなぞる
ふしぎだ
せかいと
きみとに
さかいめがあるなんて

 清岡卓行の「石膏」の「ああ/きみに肉体があるとはふしぎだ」を思い出すが、大きな違いがある。左子は「きみ」に肉体があることを不思議とは感じていない。「さかいめ」に不思議さを感じている。この「さかいめ」は左子がことばにするまで存在しなかったものである。ことばによってはじめて見えてきたもの、つまりそれまでは見えなかったものである。
 左子のいう「みえないもの」とは、そういう類のものである。

 「名前」という作品。その全行。

区別するためではなく
よりわけるためでもなくて
呼ぶという行為よりは
もっと深いわけがあって

ひとは名付けられる
ひとつの身体に
ひとつの名前
呼ばれるたびに思い出すために
世界にたったひとつの
命であること

いつも 朝が
まっさらな朝であるように
すみずみにまで
血が流れはじめる
そのときだ

名前を呼ばれると
わたしの身体は
ぴくん と跳ねて
地球という椅子から
起立する

 「名前」。これはもちろん視力では「見えない」。だが、左子が主題にしている「見えない」とは視力で見える・見えないのことではない。「輪郭」もそうだが、視力には輪郭そのものは見える。視力には輪郭は見えるけれど、その輪郭が「せかい」と「きみ」の「さかいめ」とは見ない。それを「せかい」との「さかいめ」と見るのは、意識である。
 「肉眼」ではなく「心眼」。
 肉眼が見落としていたものを、こころの目が拾い上げる。ことばのなかに。そうすることで、見える--意識できるようになるものがある。
 「名前」では、それは「命」。
 だが、もっと正確にいうと「世界にたったひとつの/命であること」の「こと」。左子が見ようとしているもの、ことばで見えるようにしようとしているものは「いの」ではなく、「命であること」の「こと」なのだ。それは「名詞」ではなく、一種の動きである。運動である。
 重要なのは、その前の行だ。

呼ばれるたびに思い出すため

 呼ばれて思い出す。呼ばれるとは、自分ではない誰か、である。「名前」でいえば、その名前をつけてくれたひと、親である。親に呼ばれて思い出す。「命」とは、親から子へとつながる「こと」、親から子へと渡されるもの、その「渡す」という「こと」のなかにあるものだ。
 「たったひとつの/命」は、ほんとうは「たったひとつ」ではない。かならず、それに先立つ「いのち」がある。
 そして、いつものは忘れているそのつながりは、「呼ばれること」によって見えてくる。呼ばれる「こと」によって、「いのち」がつながりである「こと」を思い出すのだ。思い出さなければならないのだ。
 「いのち」に血が流れはじめるのは、「よばれる」ことによってである。「呼ばれる」そのときからである。

名前を呼ばれると
わたしの身体は
ぴくん と跳ねて
地球という椅子から
起立する

 最終連で、左子は、そう書いているが、身体は「椅子から/起立する」ことはあっても、実は「地球という椅子から」起立することはない。「地球という椅子」は意識のなかにしかない。意識によって定義される椅子である。
 見えなかった「いのち」の「つながり」、「つながり」が「いのちであること」が見えるこころの目にだけ「地球という椅子」が見えるのである。

 見えないものを見る。見えるようにする。ことばによって。それは一種の「賭け」である。左子は「賭け」という作品で「肉体」をもつことを「賭け」であると書いているが、そこに書かれている「肉体」と「ことば」を入れ換えると、左子の「見えないものを見る」という「こと」が、そのまま説明したことになると思う。全行引用する。ぜひ、「肉体」と「ことば」を入れ換えて読んでみてほしい。

肉体は
さみしい遭難者
ちいさなランプを灯す
イカ釣り船のようだ

肉体を持つことは
ことばを持つことに似ている
それは
取り返しのつかない
ひとつの賭けなのである

深い夜の底で
わたしはさみしい賭博者になり
ちいさなランプを灯して
なけなしの金をはたき
擦り切れた人生までをはたいてみる

神は
わたしたちに
肉体を与えてしまった
ちいさなランプひとつを
舳先に掲げさせて

 2連目。表現を入れ換えて、「ことばを持つことは/肉体を持つことに似ている/それは/取り返しのつかない/ひとつの賭けなのである」としてみる。そうすると、そこに「いのち」、「こと」としての「いのち」が見えてくる。ことばを持つことは「いのち」をもつことと、同じ。それは、誰かから、渡され、引き継ぎ、自分の力で育てていかなければならない。ことばと「いのち」はそのとき、同じものになる。少なくとも左子にとっては同じものだ。渡された「いのち」を育てるように、渡された「ことば」を育てる。見えないものが、見えるようにするために。そして、見えないものを見えるようにするために、詩がある。





愛の手帖―佐子真由美詩集
左子 真由美
竹林館

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