『旅人かへらず』のつづき。
一〇六
さびれ行く穀物の上
哀れなるはりつけの男
ゴッホの自画像の麦わら帽子に
青いシヤツを着て
吊られさがるエッケホモー
生命の暮色が
つきさされている
ここに人間は何ものかを
言はんとしてゐる
「エッケホモー」が何なのか、私は知らない。けれど、この音は非常におもしろい。特に「吊られさがる」という音と組み合わさったとき、口蓋に不思議な快感があふれる。
それにしても「吊られさがる」とはなんという日本語だろう。「釣り下げられた」「ぶらさがっている」くらいしか私には思いつかないが、この言い間違い(?)のような音があるから、そのまま、なんだかわからない「エッケホモー」がわからないまま、音そのものとして、快感となる。「耳」に、というより、口蓋に、喉に。
西脇の音は、耳にも気持ちがいいが、それ以上に、発音器官に気持ちがいい。
最後の「言はんとしてゐる」--これが、「淋しい」であると、私は思う。ことばにならないものが対象のなかに残っている。それは深いところで「いのち」とつながっている。それが「淋しい」。
一〇七
なでしこの花の模様のついた
のれんの下から見える
庭の石
庭下駄のくつがえる
何人もゐない
何事かある
1行目から2行目への視線の動き。「なでしこ」から「のれん」への飛躍。その距離の大きさのなかに詩がある。精神の自由に動き回ることができる「間」がある。「間」には束縛の多いものと少ないものがある。束縛の少ない「間」が詩の領域である。その「間」を利用して、新たな存在と存在の出会いがある。
ただし、この出会いを、西脇は強固なものにしない。「間」をさらに脱力させるというか、「間」の関節をさらにゆるめ、脱臼させる。
庭下駄のくつがえる
無意味。ナンセンス。その自由。何もない。しかし、何事かある。この、矛盾。この笑い。ここに「淋しさ」がある。
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