高橋睦郎『永遠まで』(9) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『永遠まで』(9)(思潮社、2009年07月25日発行)

 死は生きている。死者は生きている。そういう思想があらゆることばにあふれている。「この家は」の1連目。

この家は私の家ではない 死者たちの館
時折ここを訪れる霊感の強い友人が 証人だ
色なく実体のない人物たちが 階段を行き違っている
彼等が恨みがましくなく 晴れ晴れとしているのが 不思議だ
と彼は言う 不思議でも何でもない 私がそう願っているからだ
親しい誰かが亡くなって 葬儀に出るとする
帰りに呉れる浄めの塩を 私は持ち帰ったことがない
三角の小袋をそっと捨てながら 私は呟く
もしよければ ぼくといっしょにおいで
その代り ぼくの仕事を手つだってね
そう 詩人の仕事は自分だけで出来るものではない
必ず死者たちの援けを必要とする

 晴れ晴れとした死者たち。彼等が晴れ晴れとしているのは、高橋が「そう願っているからだ」。死者たちに、いきいきと生きていてほしいと高橋は願っている。きのう読んだ多田智満子の死にあてはめると、とてもよくわかる。未知の世界へ行って、その未知なるものをいきいきとことばにする。そうあることを高橋は願っている。
 その詩を夢見て、高橋は、死を生きる。まだ、体験していない世界を生きる。

 死の世界--とは言っても、そこにあるのはすべてが「未知」というわけではないだろう。すべてが「未知」なら、それを認識する方法がない。なんらかの形で「過去」を含んでいる。「過去」が違った形であらわれるのが「未来」である。「未知」の世界というものである。
 だからこそ、死者を生きる。死者の生きてきた「過去」を生きる。高橋が、山口小夜子になった詩がその典型である。小夜子の「過去」を生き、その向こう側にある「未知」(死)を生きる。そのとき、ことばはいつでも「過去」からひっぱりだされ、「未知」へ放り出されるのだ。それがどんなふうに有効かわからないけれど、そうやって「観測気球」のようにことばをほうりあげ、そのことばが見るものを見つめる。そのことばによって見えるものを、見た、と断定する。それが詩だ。
 「死者の援け」が必要というのは、死者の「過去」の時間をくぐらないことには、高橋は、死の世界を見ることができない、という意味である。死者を生きる、死者をとおって、高橋は、死を見るのだ。つまり、未知を。そして、そのとき、高橋は死ぬ。死を現実として生きる。言い換えると、それまでの高橋を否定し、それまでの高橋を乗り越えて、それまでの高橋ひとりの視力では見ることのできなかったものを見るのだ。
 
 超越。いままでの自己を乗り越える、超越するには、「死」が必要だ。死ぬことが必要だ。高橋は、その死を、死者と生きる、いや、死者となって生きるということをとおして実現する。
 その死者となって生きる場が「この家」なのである。

 「この家」は現実の高橋の家かもしれない。だが、私には、その「家」は、高橋の「詩」であるとも思える。ことばによって作り上げられた建物としての「家」、つまり、それが詩である。

 「死者たちの庭」には、高橋以外のひとの「死」を生きる方法が描かれている。「川田靖子夫人に」というサブタイトルがついている。

親しい者がひとり死ぬと 苗木をひともと植える
それが 彼女の始めた 新しい死者への懇ろな挨拶
死者たちは日日成長をもって 彼女に答える
花を咲かせ実を結び 落ちて新たな芽生えとなる

自分が死について何も知らなかったと 彼女は覚(さと)った
死は終わりではない 刻刻に成長し 殖えつづけるもの
まぶしいもの 生を超えてみずみずしく強いもの
外を行く人は何も知らず 立ち止まっては目を細める

 「花を咲かせ実を結び 落ちて新たな芽生えとなる」は死こそがあたらしい生であることを知らせる。死なないことには、生まれることはできない。そして、その死のとき、人は(木は)ただ死んでいくのではなく、成長することで死んでいく。
 ここには矛盾の形でしか言い表すことのできない真実がある。
 成長していくことが死を生きること、死を育てることであり、その死を育てるということがないかぎり、生はありえない。

 高橋は、川田にならって、木ではなく、ことばのなかで死者を育て、死者を生き、そして死者を死ぬことで、もう一度生まれ変わる。死を、そうやって超越し、生を、そうやって超越し、強固な一片の詩になる。
 死と詩の、完璧な一体が、ここにある。


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