『旅人かへらず』のつづき。
六二
心は乱れ
山の中に
赤土の岸の上
松かさのころぶ
「の」の連続。その音の響き。最終行は「松かさがころぶ」の方が現代的かもしれない。けれど、西脇は「の」をえらぶ。
「松かさ」は「松毬」あるいは「松笠」。「松毬」の方が、転がるというイメージが視覚から直接的に脳を刺戟するかもしれない。しかし西脇は「松かさ」と書く。「かさ」の方が、転がるときの乾いた音、「かさかさ」を呼び起こし、耳を刺戟するからだろう。
西脇の音には発声器官に快感を引き起こすものと、聴覚に快感を呼ぶものがある。
ところで、「松かさ」には「松ふぐり」という言い方もある。西脇が「松ふぐり」ということばをつかっているかどうか、思い出せないが、「松ふぐり」ということばをつかったら、詩は、どんな展開をするだろう。
そんなことを、ふと考えた。西脇の詩には、土俗的なというか、土にしっかり根ざしたことば、たとえば野生の草花の名前(音)がたくさん出てくるので、私の連想が土に向かったのかもしれない。
六三
地獄の業をなす男の
黒き毛のふさふさと額に垂れ
夢みる雨にあびしく待つ
古の荒神の春は茗荷の畑に
「の」の連続。1行目の「業をなす男の」の「の」は「が」だろうけれど、西脇は「の」にこだわる。
最終行の「茗荷」の「みょうが(みょーが)」という音の泥臭さが刺戟的である。
ふと、何気なく、「泥臭い」と書いてしまったが、濁音や長音、促音、音便というのは、泥臭いものかもしれない。どの音も、歴史的仮名遣い(ひらがな)のではつかわれない。(あ、「ん」はつかわれるか……。)
西脇は、ひとの「肉体」から出てくる音としてのことばが好きなのだろうと思う。肉体から出て、肉体へ還っていく音としてのことば。濁音や長音、促音、音--その変化のなかに音楽がある。
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