誰も書かなかった西脇順三郎(41) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『旅人かへらず』のつづき。

五八
土の幻影
去るにしのびず
橋のらんかんによる

 「幻影」とは何か。土はいつでも存在する。人間は土の上に立っている。土の上で暮らしている。土が「幻影」であっては、こまる。この「幻影」はふつう辞書に載っている「幻影」とは違う。--どう違うか。それは、この詩だけではわからない。だが、わからなくてもかまわない。わからないものが、そこにことばとしてある。わからないものを、ことばにする。そこに詩があるからだ。
 この作品では、その意味のあいまいな幻影と「らんかん」という音の響きあいがおもしろい。
 「らんかん」は「欄干」である。けれど、西脇はそれを「音」にしてしまって「らんかん」と書く。そのとき、「幻影」もまた「げんえい」という「音」にかわる。「げんえー」にかわる。「らんかん」のなかには「ん」という声にならない音がふたつ。「げんえい(げんえー)」のなかには「ん」と、音をひきのばす「ー(音引き)」が交錯する。
 漢字で書こうがひらがなで書こうが「音」そのものにかわりはないはずだが、なぜか、ひらがなの方が「音」がよく伝わってくる。感じだと視覚が解放されないのかもしれない。

六一
九月の一日
心はさまよふ
タイフーンの吹いた翌朝
ふらふらと出てみた
一晩で秋が来た
夕方千歳村にたどりつく
枝も葉も実も落ちた
或る古庭をめぐつてみた
茶亭に客あり

 「タイフーン」という音が魅力的である。「台風」ではなく「タイフーン」。なぜ、英語なのか。英語でありながら、日本語の音に重なる。そして、その音のなかに「幻影」と「らんかん」でみた音がゆらいでいる。「ん」と「ー(音引き)」が。
 意味ではなく、西脇は、「タイフーン」という音そのものが書きたかった。それをことばとして、書きたかったのだと思う。
 最後の「茶亭に客あり」はちょっとかわった音である。「ちゃてい(ちゃてー)」、「きゃく」。通い合う音があるのだが、私の耳には、それは「日本語」に聴こえない。「タイフーン」が日本語として響いてくるのに、「ちゃてい(ちゃてー)」「きゃく」は何か異質なものとして響いている。「茶亭に客あり」という「文語文体(?)」が影響しているのかもしれない。それまでのことばの音の距離感と、最終行の音の距離感が違っている、と感じる。
 台風のあと、さまよって、知らずに「異質」な世界にたどりついた、という感じがする。台風のあとのいつもとは違う風景のなかを歩き、異次元に迷い込んだ--そういうことが、音そのものとして描かれている。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
新潮社

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