詩を読んでいるとき、私は「意味」を考えていない。私は、私の知らないところからふいにあらわれてくることばを待っている。驚きの一瞬を待っている。
岩佐なを「黙礼」は、とても「ひくい」ことばではじまる。思わず身を正さずにはいられない「(質の)高い」ことばではなく、あまり注意を傾けなくても、なんとなく読んでしまえることばからはじまる。
一月にその街を歩いた
街と呼べるのかヒトがいなかった
運河が道路より
ほんのちょっと(これくらい)下に流れていて
そして、その「ひくい」ことばを(これくらい)というふいの挿入によってさらに「ひくい」ものにする。ことばを読んでいるというより、なにか、ある日のできごとをぼんやりと聞かされている感じになる。(これくらい)にともなう肉体の動きもふと目に浮かび(私は岩佐には会ったことがないけれど……)、ことばではなく、その肉体の方へ少し引きずり込まれたような気持ちになる。
これは、おもしろい、と私は思う。
「意味」ではなく、「意味」になるまえの、ことばのうごめきがある。話し方、ことばの動かし方、しかもそこに肉体が絡んできて、それから先は、はっきり言って、私は「ことば」を読んでいない。
岩佐の口調、ことばのリズム、そのうさんくさい(?)ものを楽しんでいる。(うさんくさい、は、私にとってはほめことば、です。)
岩佐のことばは、なにか「意味」を裏切っている。いま、ここにある「意味」、流通している「意味」を裏切って、そういうことばでは伝えられないものを「口調」のなかにあふれさせている。
意味を裏切る、意味をこばむ、そして意味以外のものを伝えようとすることばは「うさんくさい」。私をどこへ連れて行くかわからない。この、一種の不安な感じ、えっ、どこへ連れて行かれるの? というわからなさが、たぶん詩なのである。
どこへ行くかわかっているとき、そこには詩はあらわれない。
一月にその街を歩いた
街と呼べるのかヒトがいなかった
運河が道路より
ほんのちょっと(これくらい)下に流れていて
流れなくて淀んでいるだけ
だったかもしれずただ
まっぱだかのキューピーさんが浮いていた
(しっかりして下さいっ)
変でしょ? だれもいない街。運河。そこにキューピーが浮いている。ヒトに呼びかけるように「しっかりして下さいっ」とほんとうに言ったの? それとも、ここで、こんなふうに驚かすと、読者(聴き手)が、ぐいっとさらに接近してくると思って、そう書いただけ?
ようするに、トリック? (話術、という言い方もあるけれど。)
なんでもいい、と私は思う。
ここには、ほんとうに「意味」はない。ただ、人を(読者を)ひきずりまわすことばの動きがあるだけである。読者をひきずりまわす、というのは、岩佐自身をもひきずりまわすということでもあるのだが、まあ、いっしょになって、どこか知らないことばの動きを追っていみているだけなのだ。ことばは、どこまで動いていくことができるか。それを、こんなふうにして動かして、楽しんでいる。
そして、だんだん、描写がリアルになってくる。リアルな感じがあふれてくる。岩佐が「一月にその街を歩いた」というのがほんとうかどうかは問題ではなく、つまり、岩佐の体験・経験とは無関係に「街」そのものがリアルに見えてくる。
というより、やっぱり、岩佐の体温になじんだ「街」、その「街」を歩く岩佐の肉体がリアルになってくるということかな?
「街」と岩佐の「肉体」の区別がなくなる--ということかもしれない。
ここまで、書くと、ほら、うさんくささが何かがわかるでしょ? うさんくさいというのは、あることがらが、ある人の体温にあたためられて、それ自体の匂いではなく、岩佐の体温を発しているということ。「街」の匂いを嗅いだつもりが、岩佐の匂いを嗅いでいる。人間の匂いって、臭いでしょ?(ごめんなさいね、岩佐さん。)
で、匂いが、どんどん強烈になってきます。うさんくさいを通り越して、あ、臭い--という感じ。
詩のつづき。
夏に雨嵐がくると道路まで
水路になり水が引いたあとは
消毒薬臭の街に変わるに違いない
おーい、どうして「夏嵐」なんだよ。「一月にその街を歩いた」のじゃなかったのかい。なんて、ちゃちゃを入れるまもなく、どんどん臭さは暴走していく。増幅して行く。もう、臭いということも忘れてしまう。そして、嗅覚がなじんでしまうと、嗅覚に刺戟された視覚が、またまた変なものを見つけ出してくる。
いぢいぢと生きる虫メらは
水か消毒薬で殺られるだろう
そのかたわらを赤目の鼠が
忍びの者ふうな速足で走るだろう
鼠たちは白茶けた細い紐を咥え
これはヒトが心ぼそくなった折に
心からひりだす細くちぢれた紐
あ、いいなあ、なんだかわからないけれど、「街」と「肉体」と「心」が融合して(こんがらがって?)、とっても変。
「ヒトが心ぼそくなった折に/心からひりだす細くちぢれた紐」なんて、あるかどうかわからない。言い換えると、これは、ことばでしかありえない何かである。
これが詩。
びっくりするなあ。何がなんだか、わからないけれど、この「紐」の部分が強烈だ。もう、あとは、どうでもいい。岩佐さん、またまた、ごめんなさい。でも、この「紐」があるから、この作品は詩になっている。紐に「意味」をつけくわえたいひとはかってにつけくわえればいい。私は「意味」をつけくわえず、どんな説明もなしに、この紐がいい、紐にびっくりした、紐にうれしくなった、と書く。
このあとも、さらに変になる。
これはヒトが心ぼそくなった折に
心からひりだす細くちぢれた紐
そうしたものを口で引きずって
地下まで報せに走る秘密のオネズがいる
街を来年の一月に歩いた
さらいねんも
「来年の一月」は未来。その未来に「歩いた」という過去形はあわない。学校文法なら、間違っている。この間違っている、ということ、「意味」を超越するということが、詩なのである。だから、これはこれでいいのだ。
間違うことで、いっそううさんくさくなっていくのである。詩になっていくのである。
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