ひとはなぜことばを追い求めるのだろう。林嗣夫は「ことば」を「修辞」と呼んでいる。「方法」という作品。
修辞に疲れたときは
ちょっと立ち上がって
一つ深呼吸をして
お手洗いにでも行ってみるといい
そして手を拭いて
春の空の
とりとめのない雲を眺めてみることだ
修辞にいらだつときは
こっそりその場を抜け出して
抜け出して
しかし 別に行くところもない
行くところもないということを
軽く
口ずさんでみてはどうか
この2連目が、私はとても好きである。「こっそりその場を抜け出して/抜け出して」「別に行くところもない/行くところもないということを」という繰り返しがいい。言い直そうとして、うまく言い直せない。そのために繰り返しになってしまうのだが、その繰り返しのなかでも、追い求めているものがある。林は何を追い求めているのか。
3連目。
なぜそんなに
修辞にこだわるだろう
世界は十分にここにあり
しかも変幻自在だというのに
あえて
わたしという欠如を
追いつづけようというのか
「わたしとという欠如」。「ことば」のなかには「わたしが欠如」している。いま、こうやって語っていることばは、「わたし」のすべてを伝えない。伝えたいことが、いま、ここにあることばではつたわらない。
こういうことを、ふつうは「ことばの欠如」という。
「わたしには、わたしのいいたいことをいうことばがない。ことばが欠如している」と。
しかし、それを林は「ことばの欠如」とは呼ばずに、「わたしの欠如」という。
ことばはありあまるほどある。欠如しているのは「わたし」である。だからこそ、同じことばを繰り返してみるのである。同じことばを繰り返し、「わたし」がそのことばにまで追い付いてくるのを待ってみるのである。修辞を、ことばを、「わたし」が探しているのではない。「わたし」は修辞を、ことばを追い求めているが、その追い求めるというのは、探すというのではなく、いま、ここにあることばに追い付くことを「わたし」に課すということなのだ。
私の書いていることは、林の書いていることと逆--矛盾しているように見えるかもしれない。けれど、私から見ると、林のことばはそんなふうに見えるのだ。
ことばを繰り出して、そのことばを追いかける。それは新しいことばが、そのことばの先にあらわれるのを引き出すため--というよりは、ここでは、ことばに「わたし」が追い付き、そうすることで、「わたし」そのものが変化する、ということなのだ。
世界はかわる。けれど、「わたし」はかわらない。つまり、「かわるわたし」が「欠如」しているのだ。
「わたし」がかわれないなら、どうすべきなのか。
修辞で行き詰まったときは
畑にでも出て
土の上に立つのもいいではないか
茎立ちとなった高菜の花を
ぴりっとくる浅漬けにしてみよう
横の小山では ウグイスが
ホーホケホケ
風がやわらかく包もうとしているものを
そのまま
わたしだと言ってみる方法もある
「わたし」がかわれないとき、「わたし」を捨てる。そして、「わたし」ではないものを「わたし」だと言ってみる。それは、「わたし」を捨て、ある何かに「なってみる」ということと同じだと思う。
たとえば「わたし」を捨て、「ホーホケホケ」と鳴いているウグイスになってみる。このなってみる、ということは、実は2連目の繰り返しにつながる。
修辞が、ことばが、みつからない。そのとき、何でもいいからことばを口にしてみる。「抜け出して」とことばにしてみる。そして、つぎに、そのことば「抜け出して」そのものになってみる。「行くところもない」と口にして「行くところもない」ということばそのものになってみる。
「抜け出して」とか「行くところもない」というような、修辞的ではないことば、かっこよくないことば(?)になってみる。
うまくいえないが、ここにはなんだか人間の淋しい本質がある。淋しい美しさがある。なんでもないことばになって、そのとき、やっと「わたし」が「わたし」に追い付いてくる。「わたし」は「欠如」しているかもしれないけれど、その「欠如」(それは、修辞的ではないの「ない=欠如」、かっこよくないの「ない=欠如」かもしれないが……)そのものになるという不思議な充足のようなものがある。算数でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるような、なにか、不思議な変化がある。
林は、いま、そういうものと向き合っていると思う。
![]() | 風―林嗣夫自選詩集 林 嗣夫 ミッドナイトプレス このアイテムの詳細を見る |