『旅人かへらず』のつづき。
二九
蒼白なるもの
セザンの林檎
蛇の腹
永劫の時間
捨てられた楽園に残る
かけた皿
詩人がことばを選んでくるとき、そこには何が反映されるのだろう。「蒼白なるもの」を西脇は集めてきている。その取り合わせに、詩があると感じて、取り集めてきている。
私は長い間、2行目を「セザンヌの林檎」と思っていたが、「セザンの林檎」。この「セザン」を私は知らない。知らないけれど、「セザンヌの林檎」だったらつまらないと感じる。理由はひとつ。音がつまらない。イメージはしっかりつかめるけれど「セザンヌの林檎」では音がおもしろくない。
そして、次の「蛇の腹」。これは、なんと読むのだろう。私は「じゃのはら」と読んでいる。「へびのはら」では音がとても間延びする。(セザンヌの林檎、も間延びする。)「じゃのはら」と読むとことばが加速する。「セザン」「林檎」「蛇(じゃ)」とつづいて、「永劫」「時間」。音が交錯する。その交錯がたのしいのである。
「蛇の腹」には「蛇腹」も隠れていて、それが伸び縮みする。そこに「時間」が入り込んできて、「いま」と「永遠」が出会い、その隙間(?)に「楽園(らくえん--この音の中に、「セザン」「林檎」「時間」の「ん」が出てくる)」がのぞく。
それから「かけた皿」。
「欠けた」ではなく「かけた」が不思議になつかしい。
「ん」の音で短く短くなっていく、スピードが上がってきて、ふいに、そのスピードがやわらかくなる。
それもたのしい。
追記。
「ん」と「の」の響きあいも、この断章にはある。「セザンの林檎」の「の」。「永劫の時間」の「の」。その「の」の動きが、「蛇腹」を「蛇の腹」に変えてしまう。けれどそれを「へびのはら」と読むと、この行だけ音が間延びする。だから「じゃのはら」。促音のかわりに拗音。
そんなことろにも西脇の音楽を感じる。
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