宮田浩介の詩にはいろいろな魅力があると思うが、私がついつい(?)惹かれるのは、どうしても「音」が聞こえてくる瞬間である。
XⅦの書き出し。
そして余所から来た蠅は自分の生まれた日に
車輪二つで、島じゅうをめぐる--開かれた無限の孤独は
傷を癒してくれる、道々蹴る石のように、
唐突だが確かなその手触りで。ゆるく曲がった
坂道、その光と影のページをゆっくりとめくり、その先をまた
惰性にうっとりと下ってく--韻を待ちながら。
「韻」ということばが出てくるから書くのではないのだ。1連目の、「開かれた無限の孤独は/傷を癒してくれる、道々蹴る石のように、」ということばのなかに、弾き飛ぶ石の「音」がある。それは石の音であると同時に、乾いた空気の音である。
この乾燥した空気の感じは、石さえも砕くのである。石さえも乾燥して、音を立てる。その乾燥した破壊は、まるで蝉の脱皮のように自然なことなのだ。
3連目。
石が坂をどう跳ねてくかも知ってる、縁石に
砕ける様子も、後の切り立った静けさも。俺はそこから来たんだ、
蝉がその背中を突き破って出てくるように、
この、濁りのない空気、そして、その濁りのない空気だけが響かせることのできる「音」。そこから、色が生まれてくる。この瞬間が、とても美しい。
4連目。5連目。
青い皮膚の骸骨、草の芽、雲のように。陽は
水平線を後にしながら燃え上がる船に姿を変え、
人間のおこす煙の上、八月の星が
次々に瞬きだす。流れ星が走るころ、
一日はもうおしまい。焚き火のそばへ蛹のような寝袋を
広げ、その火の灰がどのくらい古いか問おう。
「色」と書いたが、それは「色」であると同時に、色ではない。「青い皮膚の骸骨」というのは「色」をかりた「音」である。無意味である。その青は。だからこそ、意味を背負わずに、ことばは次々に展開していく。「色」を透明化する「音」がある。すべてを透明にして夜が来る。
「流れ星が走る」ということばに触れるとき、昼間の、バイクでの疾走の音がよみがえる。流れ星のように走ったのは、宮田か。あるいは、流れ星はバイクの車輪にはねとばされた小石か。空に「音」が輝きながら動いていくのが見える。
そのとき、「いま」と「太古」をつないでいる「空気」が見える。火のはじける音と、その音をしずかに眠らせる灰--その長い長い「歴史」が見える。
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