宮田のことばの音の美しさ。どう説明していいのかわからないけれど、日本語の音をひきずっていない美しさがある。隣に英語があるからそう感じるのかもしれないが、文脈が日本語と違う。文脈というのは「意味」だけではなく、「音」にもあるのだと思う。日本の演歌、あるいはポップスとジャズの音が違うように、音には音の文脈(?)というものがあって、その音の文脈が違うのかもしれない。
「Current 」のⅡの部分。
だが海はいつも静かだ。瞼のように波は
陸へ下りてきて、キスがすむと
また持ち上がってく。
「持ち上がっていく」ではなく「持ち上がってく」。1音短い。--と、とっさに、というか、私の肉体は、そこで唐突にそんなことを思う。宮田が七五調で書いているとか、定型で書いているとか、そんなことはないのに、なぜか、そう感じる。「また持ち上がってく」なら1音多いのだが、その1音多い、1音少ないという私の意識と宮田の音が出会って、その瞬間、私は「異質」なものを感じ、それを「醜い」ではなく「美しい」と感じる。
これは、これ以上、どう書いていいかわからない。私の書いていることが、他の読者と共有できる感覚なのかどうかもわからない。(私が不勉強なのかもしれないが、詩の感想で、音についての感想を、あまり読んだ記憶がない。)
子どもたちはいまクロールの手つき、差異を生む才能を
掘り出して進む--せっせと砂をかき出して
浜に水を呼び込み、壁を築き
水流をせき止めて、水が溢れだすたびに、また新しい壁--
砂遊び、城か何かをつくっている子どもたちの描写かもしれない。ことばの関節が、どこか「日本語」と違う。文脈が違う。そこに新鮮さがあり、それが「音」として響いてくるのだろうか。「差異を生む才能を/掘り出して進む」に、不思議な「音」を感じる。一種の「翻訳」文体がつくりだす「音」かもしれない。
そういう明らかに「異質」を文体、文脈とは別に、この部分で、私はぐいと引き込まれた「音」がある。
子どもたちはいまクロールの手つき
このひとつづきのことばのなかの「いま」。これが不思議なのだ。あ、「いま」ということばは、こんなふうにつかうのだ。そうすると、こんなに輝くのだと思った。
「いま」につづく一連の動詞。子どもたちの動き。それは、その動き動きの瞬間「いま」なのだ。
「いま、子供たちはクロールの手つき」だったら、私は、たぶん興奮しなかった。「音」をうるさく感じたかもしれない。「子どもたちはいまクロールの手つき」の「いま」は私の感覚では、「音」が埋没している。あるかないか、わからない。とても小さい。そして、それが微小であることによって、すべての行為・行動が、その一点に凝縮し、それからその一点から爆発的に拡散していく感じがする。(宮田は、「せき止めて」「溢れだす」という表現をつかっているが……。)
「いま」という音に、そういう凝縮と拡散する力を感じのである。
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