誰も書かなかった西脇順三郎(27) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


 
 『旅人かへらず』のつづき。

二一
昔の日
野ばらのついた皿
廃園の昼食
黒いてぶくろ
マラルメの春の歌
草の葉先に浮く
白玉の思ひ出
無限の情

 ここでは音がゆっくり動いている。ひらがなの効用だろうか。特に「黒いてぶくろ」に、そのゆったりした音の動きを感じる。「てぶくろ」の「ろ」の音が「マラルメ」のなかで見え隠れするのも楽しい。
 「意味」はなにかしらあるのかもしれない。マラルメの詩に「てぶくろ」が出てくるのだろうか。それともマラルメは、次の行に出てくる「露」(だろうと思う)を引き出すためのものなのか……。
 「草の葉先に浮く」は、前の行とつづけて「春の歌/草の葉先に浮く」と読むとき、いくつかの音が抜け落ちて「春の(歌/草の)葉先に浮く」と「は」の音が私の発声器官のなかで響く。そして、遠くで、その抜け落ちた「草」の「く」と「黒い」の「く」が呼び合っている。
 こんなことを思うのも「てぶくろ」という表記がゆったりしているからだ。

白玉の思ひ出
無限の情

 この2行は、「てぶくろ」に比べると非常に速い。音が速い。唐突に消えていく感じがする。「無限の情」と書いてあるが、私には、それがどんなものか感じる「時間」の余裕がない。つまり、何も感じない。何も感じないので、「無限の情」が重くない。実にさっぱりしている。
 「無意味」というさっぱりさ、一種のナンセンスな軽さがある。

 私は、無意味なナンセンスの軽さを、とても愛している。わたしのことばは、そういうものをもっていない。だから、そういうものに、とてもひかれる。

二二
あの頃桜狩りに
荒川の上流に舟を浮かべ
モーパッサンを読む
夕陽に葦の間に浮かぶ
下駄の淋しさ

 最後の「下駄」はいっしゅの「聖」と「俗」のとりあわせの「俗」に属するものかもしれない。「桜狩り」「舟(遊び)」「モーパッサン」という風雅、「夕陽」という哀惜に対して、「下駄」(捨てられた下駄)という俗。
 風雅と俗の対比--そこから浮かび上がる「淋しさ」。
 でも、それ以上に、「げた」という音の破壊力がすごい。濁音の破壊力がすごい。「靴」では、この破壊力がない。「ハイヒール」では、きっとぎょっとしてしまう。
 西脇の詩において、「もの」そのものではなく、「音」が選ばれている、と感じるのは、こういうことがあるからかもしれない。


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