誰も書かなかった西脇順三郎(26) | 詩はどこにあるか

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 『旅人かへらず』のつづき。

一八
白妙の唐衣(からごろも)きる松が枝に
ひよどりの鳴く夜は淋し

 短歌のようなリズムである。最後が字足らず。そのままにしているところが西脇らしさかもしれない。短歌(和歌)になってしまうことろを、あえてリズムを壊すことで踏みとどまる。
 しかし、その工夫(?)は工夫として、このことばの動きには万葉の音楽がある。何度も書いてしまうが、西脇の音の美しさは濁音の美しさである。聞いてというようりも、黙読するとき、肉体のなかに響く音楽。喉、舌、口蓋がいつも気持ちがいい。
 「白妙の」は「しろたえの」と私は読む。「しらたえの」だと音が軽すぎる。「しろたえの」と読むと「からごろも」の「ごろも」の音ととても気持ちよく響きあう。

一九
桜の夜は明けて
にはとりの鳴く
旅立つ人の泣く

 この「一九」を読んだ瞬間、私は、一瞬驚く。ちょっと混乱する。
 「一八」の2行目。「ひよどりの鳴く夜は淋しい」の「夜」を私は「よる」読んでいるけれど、「一九」の「桜の夜は明けて」の「夜」は「よ」と読んでしまう。無意識に5音、7音へと動いてしまう意識が私にはあるのだ。そのリズムが肉体のどこかに染みついているのだ。
 西脇は、実際は、どんなふうに読んでいたのだろうか。

 「よはあけて」と5音に読んでしまうことと同時に、「よ」と読んでしまうのは、2行目、3行目の「の」の繰り返しも影響している。説明はできないのだが、「よ」と1音のときの方が「の」が読みやすい。響きあい--という観点から言うと、響きあわない。「よ」と「の」の音は遠く離れる。「よる」と「の」だとひっぱりあう。「よ」と「の」は反発しあって、遠くなる。そして、この離れていく、遠ざかるという印象が「泣く」を軽くしてくれる。「泣く」というセンチメンタルが、情に沈むのではなく、「わざと」書きました、という軽さになる。





西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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